日紡誘致の糸口をつくったのは、蚕糸業者として豊橋経済界で活躍していた松尾幸次郎(こうじろう)である。日紡の新工場建設計画を知った彼は、商工会議所会頭磯村弥八(やはち)とともに大竹市長に働きかけた。市長は失業問題の解決や市の経済発展のためにもぜひ必要であると判断し、日紡の豊橋工場誘致に積極的に乗り出した。
日紡は、当時資本金一〇億円で、大阪に本社を持つ日本を代表する紡績会社であった。新工場建設計画の発表と同時に広島・沼津・四日市など全国で二八の市が工場誘致の名乗りをあげ、猛烈な誘致運動を展開した。
豊橋市は、戦前の人毛(じんもう)工場誘致の失敗を繰り返してはならないと、市、議会、経済界など官民一体となって誘致運動を展開した。交渉は順調に進み、昭和二十五年九月に旧軍用地の高師原に新工場を建設することが決まった。建設予定用地の中には三七戸の開拓農家があったが、その農地買収は最も困難な問題であった。彼らが容易には承諾できないのも開拓の苦労を思えば当然であり、市も誠意をもって解決にあたった。
同年十二月、日紡との契約書を取り交わした後、工場の建設を進め、翌二十六年十二月に落成式がおこなわれた。曙(あけぼの)町松並(まつなみ)に二六万平方メートルの敷地を持つ日紡豊橋工場が誕生したのである。生産能力六万四三二〇錘(すい)、従業員二〇〇〇人の豊橋待望の大工場が出現した。これにより、市内の大きな紡績工場は、豊橋紡績と大日本紡績の二つとなった。
日紡豊橋工場
日紡豊橋工場が豊橋の経済に与えた影響は大きかった。従業員二〇〇〇人が一年間に消費する金額だけでも膨大であった。しかも、誘致の条件として免除されていた固定資産税が、昭和三十二年度から市に納入されることになり、その金額は二五〇〇万円と予定された。当時の市の年間予算が五億円程度の規模であったので、大工場の誘致が豊橋の経済や財政をいかに潤したか想像できる。
日紡豊橋工場の誘致成功に意を強くした豊橋市は、商工会議所と合同で工場誘致特別委員会を設置して官民一体となった誘致運動を強力に推進した。この誘致ブームは市民のレベルまで浸透していた。昭和二十九年(一九五四)に税制面での優遇措置を認めた工場設置奨励条例は、まさにその裏付けである。この優遇措置は、固定資産税に対する課税標準額三〇〇〇万円以上の大工場に対し、市から奨励金を固定資産額相当交付されることになっていた。交付期間は三年以内とされたが市長が特別に認めた場合は五年まで延長できた。
また、全国の有力な企業に向けて、豊橋進出を促すための「工場設置の栞(しおり)=豊橋の展望」を配布した。この小冊子ではあらゆる角度から豊橋が工場適地であることを強調している。
このような豊橋市の努力が功を奏し、多くの工場が豊橋進出を希望してきた。そのなかでも、豊橋の工業化に大きな影響を与えたのは、東京に本社を持つ東都製鋼(現トピー工業)の誘致であった。東都製鋼は朝鮮戦争による特需景気で業績をあげ、増産体制を早急に確立する必要があった。ところが、主力工場である東京深川は地盤沈下が激しく、新工場の用地を他の地へ求めていた。大竹市長は早速誘致に乗り出した。待ちに待った重工業である。
戦後、豊橋市は繊維工業の復興や日紡の誘致成功などで女子の就業の場は確保されつつあったが、男子の就業の場は少なかった。東都製鋼の誘致はその面でも大いに期待された。
昭和二十七年(一九五二)、東都製鋼は千葉・播磨・富山などの調査に見切りをつけ、豊橋の建設予定地である大崎島に絞って豊橋海軍航空隊跡地を視察した。しかし、特需景気が下火になると鉄鋼の需要も減少し、移転計画は棚上げ状態となってしまった。その後も市は粘り強く交渉を続けたが、工場用地と港湾設備に問題があり、誘致交渉は容易に進まなかった。
大崎島の旧海軍航空隊跡地には、老津と大崎の住民が払い下げを受けた開拓農地があり、離作補償などの問題を解決しなければならなかった。また、東都製鋼に鋼材を運搬する航路の確保が必要であったが、漁場に影響が出るのを心配した地元大崎漁業協同組合は、港湾建設に反対の意向を表明した。
豊橋市は、開拓農民や漁民の説得に努力を傾け、昭和三十二年に被害補償を中心とした協定を結ぶことができた。東海財務局も、農地転用申請と国有地払い下げ申請を認可したため、ここに東都製鋼の豊橋進出は正式に決まった。三十三年十一月、東都製鋼豊橋工場の電気炉に火がともされ本格的な操業が始まった。
工事が進む東都製鋼
昭和三十五年六月の市長選で当選した河合陸郎は、工場誘致政策を引き継ぐことを表明し、「新しい工業地帯豊橋=工場進出の手引」を作成して全国の企業に進出を呼びかけた。
それに呼応するかのように、昭和三十五年には藤並(ふじなみ)町に伊藤ハム工場、牛川町に三菱レーヨン工場、草間町に東海漬物(つけもの)工場が進出した。その翌年には、二川地区に京都ダイカスト工業・日東電気工業・神鋼(しんこう)電機が進出して内陸工業地域を形成するようになり、大工場誘致の夢は徐々に実現していった。
二川内陸工業地域 副読本「ふたがわ」より