三河港づくりの構想

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 昭和三十五年(一九六〇)ごろは、高度経済成長にともなう工場の地方分散政策が積極的に進められた時代である。豊橋市は、臨海部に鉄鋼業を中心とする一大臨海工業地帯の建設を夢見ていた。大崎島に東都製鋼、神野(じんの)新田に日本特殊鋼、前芝海岸に日本鋼管という青写真がすでにできていた。
 しかし、豊橋に注目したすべての企業の誘致が実現したわけではなかった。市が誘致を熱望して積極的に働きかけたが失敗したものもあった。その代表的なものが、昭和三十五年に展開した日本鋼管と日本特殊鋼の誘致運動であった。この二社は日本を代表する大企業であり、誘致運動は熱をおびたものとなったが失敗に終わった。この原因として、港湾・鉄道・道路などの輸送体系や将来への開発計画の不備が指摘された。
 そこで誘致政策は、東三河という広範囲を視野に入れた総合的な開発計画へと転換を迫られた。この年の十二月、市役所の工業開発課は青木茂(しげる)助役を中心に検討を重ね、東三河総合開発計画を発表した。
 総事業費約一四〇〇億円という膨大な規模の「夢の三河港」計画は大きな刺激剤となり、八幡製鉄や日本鋼管の首脳部が来豊して田原町の笠山(かさやま)に登って三河湾内を視察した。ところが、漁業補償の問題が未解決の現状では手のくだしようがないとの意向が市に伝えられ、立ち消えとなってしまった。
 しかし、この青木構想に通産省も着目し、中央の学者や専門家からなる東三河工業開発中央専門委員会を発足させてマスタープランの作成に取りかかった。委員のメンバーは、通産省の工業立地審議会委員長佐藤弘や八十島義之助などそうそうたる顔ぶれであり、通産省の東三河に寄せた期待を感じ取らせた。原案を審議する過程で、青木構想にある洋上埠頭(ふとう)は港湾関係者から実現不可能であるとの意見が出され、代わって神野公共埠頭が盛り込まれた。
 昭和三十六年十二月にマスタープラン第一次案は委員会での協議を終え、翌年の二月に愛知県との調整をおこない、地元への中間報告がされた。そして、六月に東三河産業開発連合会の定期理事会が招集され、このプランを検討した結果承認された。引き続いて豊橋商工会議所ホールでマスタープラン第一次構想報告会が開催された。

東三河開発マスタープラン(第一次構想)

 この第一次構想は、臨海部に約三九六〇万平方メートルの工業用地を造成し、内陸工業地帯の開発とあわせた港湾取扱い貨物量を約六〇〇〇万トンと推計している。そして、この数値に適合した施設の造成をはかることを骨子としている。また、タンカーや鉱石船の大型化から港湾の規模を水深一六メートルとし、中山水道からの土砂を造成の埋め立てにあてるように計画された。さらに、三谷から蒲郡にかけての美しい自然海岸には、ヨットハーバーなどの観光港的施設の整備を計画するなど画期的なプランであった。
 第一次マスタープランの発表後、東三河の開発ムードは盛り上がりを見せた。東三河産業開発連合会では関係する市町村からプランに対する要望や意見をまとめ、第二次マスタープランに盛り込むように中央専門委員会に委託した。ここで地元から出されたものは、工業開発の種類と位置、農林水産業の振興対策、観光開発の構想などの具体像であった。そこで、中央専門委員会では、これらの要望や意見を取り上げて再調査し、昭和三十八年六月に東三河開発マスタープラン第二次構想を発表した。その中には新たに農林水産業の振興と上下水道部門が付加されている。こうして、鉄鋼・石油・電力等の基幹産業コンビナート群の配置、推計年間生産額一兆五〇〇〇億円の大臨海工業地帯の開発一〇万トン級の船舶入港可能な港湾づくりなど壮大な夢がかけられていくのである。
 このような中央専門委員会による開発計画は、県の新地方計画にも盛り込まれ、臨海工業用地として田原地区に約三〇〇万平方メートル、御津(みと)地区に約九〇〇万平方メートルを造成するように計画変更された。豊橋市や東三河開発連合会が強く主張し続けてきた「東三河はひとつである」という構想が採用されたわけである。それに関連して、従来の田原港・豊橋港・蒲郡港という分散型の開発計画から、三河港として統一されたなかで推進されることになった。そして、昭和三十七年に地方港湾三河港の港域が正式に運輸大臣から指定された。
 
青木構想の「夢の三河港」
 河合市長は民間の東三河産業開発連合会と協力しながら東三河地域の開発を進めた。豊橋市は青木助役を中心に港づくりのマスタープランを構想した。
 この構想の柱は三河湾の海上に洋上埠頭(ふとう)をつくり、そこに六万トン級の大型船舶が接岸できるような港湾設備を造成することであった。洋上埠頭の利点は、難航が予想される漁業補償を回避できることである。
 さらに、埋め立てにより臨海工業用地をつくり、南部地区の輸送センターを核にして交通網を整備し、港湾機能を高めようとするもので、夢の三河港プランとして注目された。

東三河開発計画試案