東三河地域でも、新産業都市に指定されることが工業化促進につながるとして、指定運動に積極的に取り組んだ。政府へのたび重なる陳情活動を展開したが、ある程度整備の進んだ地域は指定しないという政府の方針から、東三河の指定の望みは薄くなった。
新産業都市指定の陳情
ところが、政府は地方の盛り上がりや整備地域の開発を重視して、昭和三十八年(一九六三)に新産業都市とともに工業整備特別地域の指定もおこなった。東三河地域は新産業都市の指定は逃したものの、工業整備特別地域に指定され、開発への明るい未来を持つことができた。
これと同時に、三河港の重要港湾指定の運動が活発化していた。重要港湾に指定されれば、国庫補助が四割から五割に増額されるとともに、国の予算が港湾整備のために重点的に配分される。豊橋市は県と一体となって運動を進め、運輸省に指定申請を提出したが実績のないことを理由に政府から難色を示された。しかし、工業整備特別地域の指定の候補に上っていたことが有利に働き、昭和三十八年二月の閣議で三河港の重要港湾の指定が決まった。
このように、三河港づくりを中心とする臨海工業地域の計画が着々と進むにつれて、以前より港湾造成反対の態度をとってきた漁業組合の反対運動は、活発な動きを見せてきた。
昭和三十七年九月、大崎漁協の臨時総会が開かれた。中村組合長から三河港造成の状況説明がおこなわれると場内は騒然として殺気立ち、ただちに総会は漁民大会に切り換えられ、絶対反対の決議文が採択された。
この大崎漁協の反対の決議が手始めとなり、三河湾沿岸各地で反対ののろしが上がった。そして、関係の一五の漁業組合長は、漁民の生活権を守るために団結して反対していく方針を固めた。おりしも、新産業都市指定運動の最中であり、事態を憂慮した河合市長は根底から覆(くつがえ)される恐れがあるとして、市内の組合長に反対運動を表面に出さないように協力を要請した。
しかし、重要港湾指定の局面を迎えると漁業権が制限される恐れがあり、漁民の生活が脅かされるとして反対の気運は一段と高まってきた。漁民による三河港反対期成同盟会が結成され、反対の立場を一層明確にした。全国の開発指定地域は実施の段階に入っているのに対し、東三河だけは蒲郡港の整備事業のみで取り残された。
この打開策として、愛知県ではこの問題を解決するために企業局を設置して積極的な姿勢を打ち出した。豊橋市もこれに呼応して工特対策室を設け、漁業補償のための業務を本格的に推進することになった。この工特対策室は、市長の直属機関として三河港造成の推進と、そのための漁業補償の折衝窓口となった。
昭和三十九年七月、愛知県と豊橋八漁協の漁業補償に関する初めての話し合いが持たれた。県から補償原則が示されたが部分補償に対して不満が残り、各漁業組合長は反対の方針を貫いた。翌年二月に漁業補償交渉がおこなわれ、県側は総額一〇〇億円の数字を提示したが組合側は納得しなかった。豊橋市では、工特対策室長をはじめ職員が何度も足を運んで話し合った。河合市長も大崎漁協を訪れ説得に努めた。これ以上工事を遅らせることは、三河港造成事業そのものを断念しなければならない限界まで来ていたのである。
中日新聞 昭和38.8.2
豊橋市中央図書館蔵
昭和四十年四月、漁業補償の算定となる実態調査を老津組合が受諾したのを皮切りに各組合が受け入れ、大崎漁協も昭和四十一年一月の臨時総会で実態調査受入れに踏み切った。そして、反対の砦(とりで)であった大崎漁協も、木下新組合長のもとで三河港造成の承認が決定された。こうして、三河港関係漁協は次々と条件交渉に入り補償額をつめていくことになった。大崎漁協は県から全面補償を引き出し、二七億七六〇〇万円で最終的に妥結した。その後、渡津(わたつ)・牟呂・前芝・老津(おいつ)などの組合が県と漁業補償の調印を済ませた。
漁業補償調印式
豊橋市内八組合の補償額は一八三億円余であり、組合員一人当たりの平均金額は五五〇万円であった。漁業補償の全面解決により、三河港造成事業は軌道に乗ることになるが、海を離れた漁民の生活に不安が残った。
昭和四十年八月、神野公共埠頭の建設の第一歩が始まると三河港造成工事は急ピッチで進んだ。やっと軌道に乗った造成事業を祝福し早期完成を願って、四十四年十一月には三河港総合起工式が盛大におこなわれた。そして、四十六年に摂津(せっつ)丸が神野埠頭に第一号として入港した。その後も神野公共埠頭の岸壁工事は順調に進み、それとともに木材港や後背地の道路網なども整備され、貨物輸送体系が確立されていった。
昭和四十七年五月、待望久しい豊橋港が正式に開港し、開港式が神野公共埠頭でおこなわれた。会場には巡視船三隻と協和丸・清水丸・金栄丸が入港し、木材港にはエジンバラ号が接岸して開港を祝った。八月に名古屋税関豊橋出張所が開設され、世界の港の仲間入りをした。
開港式典