昭和四十八年の石油ショックに始まった不況は、三河港計画にも大きな影響を与え、公害や環境汚染への関心が高まるなか、規模の縮小と臨海工業地域の性格の変化をもたらした。臨海部の造成は二四〇〇万平方メートルに縮小され、推定取扱貨物量も半分以下の二三〇〇万トンに減らされた。また、三河港の基本構想も根本からくつがえされ、従来の鉄鋼・石油化学コンビナートを中心とする大型港湾から、流通加工を核とした商業的機能を重視した港湾づくりへと大きく軌道修正された。
このような厳しい状況のなかで、豊橋港は貿易港としての準備を進めていった。昭和五十三年、大崎町に名古屋入国管理局豊橋港出張所が設けられ、ここに貿易港に必要な大蔵・農林水産・法務三省の出先機関がやっとそろった。そして、三省の合同庁舎建設の気運が高まり、五十六年に豊橋港湾合同庁舎として神野埠頭に開設された。
一方、豊橋港と後背地を結ぶ道路網の整備は、昭和五十年代に入り活気づいてきた。その要因の一つに、五十三年に打ち出された西遠・南信地方を含む広域圏の物流拠点港構想があげられる。さらには、明海臨海地区の企業進出にともなう交通渋滞の解消や、トヨタ自動車の田原進出による産業道路の確保などが重要視されてきたことも要因に含まれる。
昭和五十七年に待望の三河港大橋を含む東三河臨海道路が完成した。この道路は、田原埠頭から臨海造成地を縫うようにして御津地区に至る約二五・四キロメートルの産業道路である。さらに、五十八年に国道二三号豊橋バイパス、六十一年に小坂井バイパスが完成し、豊橋港を中心とする基幹産業道路は充実していった。現在は東三河環状線をはじめ、豊橋東バイパスなどの工事が進行中であり、平成八年に開通する潮見バイパスを合わせると、浜松を中心とする西遠工業地域との交流もさらに深まるものと期待されている。
東三河基幹道路計画 平成7年12月現在
昭和五十年(一九七五)に豊橋港に入港した船舶は二五九五隻で、取扱貨物量は約一五〇万トンであった。そのうちの七二%は、原油や木材、飼料などの輸入品が占めており、輸入港としての印象が強かった。
しかし、昭和五十六年、トヨタ自動車が田原工場に専用岸壁を完成し、本格的な自動車の輸出を開始したことにより輸出額は驚異的に伸びた。それに拍車をかけるようにスズキ自動車が輸出車を神野東埠頭から積み出しを始め、自動車の輸出基地としての機能が高まった。その後も、豊橋港の輸出額はうなぎ登りに急増して平成五年度には一兆円を越え、同年と翌六年の全国輸出ランキングでは第八位を占めるに至った。
豊橋港の貿易額「1995年豊橋市勢要覧」より
最近では、欧州の自動車メーカーがあい次いで進出し、自動車の輸入では全国第一位となった。なお、ブラジルのジュース工場も決まり、国際輸入基地としても脚光を浴びている。名実ともに国際貿易港として名乗り出たのである。
また、国際港にふさわしいコンテナ機能の整備や、港湾技師訓練センター・総合スポーツ公園・国際産業交流会館の建設など世界に拓(ひら)く港湾づくりも着実に進められている。この構想は豊橋ウォーターフロント計画と呼ばれている。豊橋港を中心とした牟呂地区の臨海地域に、国際的な交流機能や流通機能、さらにはスポーツ、広域レクリエーションなどの都市機能を集積させ、二十一世紀の東三河地域をリードしていくようなシンボルゾーンをつくることを目的としている。
総合体育館をはじめ平成六年五月に開館したライフポートもこの計画の一環である。とくに、ライフポートは婦人会館・労働会館・教育会館の三つの複合施設であり、千人を収容できる大ホールを持っている。このように、豊橋は豊橋港を中心とした都市づくりと港湾の整備が進められ、国際都市へと大きく飛躍しようとしている。
ライフポートとよはし