厚生省はこの構想に着目し、都市廃棄物処理対策の指針とするために、豊橋市をモデルにして「都市農村環境結合計画」をまとめた。これがユーレックス計画である。そのため、この事業には総事業費七八億円のうち二七億円近い国庫補助がついた。
ユーレックス計画の中心となるのは資源化センターであった。ここには、一日二三〇トンの処理能力を持つゴミ焼却炉などの熱源施設やコンポスト施設、し尿処理施設がつくられた。そして、その熱源の供給を受ける温室団地が造成された。用地は豊栄町の農林省が管理する敷地三四ヘクタールを使用した。
昭和五十三年(一九七八)七月、資源化センターの起工式がおこなわれ、その二年後に完成した。巨大な白亜の資源化センターは、地下一階地上五階建ての近代科学の粋を集めた施設であった。
豊橋市資源化センター
ユーレックス計画の成否の鍵を握っているのがゴミの分別収集である。豊橋市は昭和五十五年から五分別収集制度を採用した。
これは市民にも徹底されてきたが、人口の伸びと都市化の進展により、ゴミの量は増加の一途をたどっている。平成二年度(一九九〇)には年間七万トンを越えており、今後ゴミの減量や抑制が課題である。
豊橋市でも環境センターやリサイクルセンターなどの施設をつくり、ゴミの分散処理や再利用に努力している。環境問題が高まるなかで、豊橋市のゴミ行政のあり方は全国から注目され期待されている。
530運動の広がり
530運動は、昭和五十年に豊橋山岳会の会長夏目久男が「自分のゴミは自分で持ち帰ろう」と市に提唱したことに始まった。豊橋市では「市のモットーである美しい町づくりにぴったりである」とこの提唱を受けとめ、民間の各種団体に呼びかけた。
そして、その年の七月に、小中学校PTAや婦人会総代会など四三団体の代表者が集まり、530運動推進連絡会が設立され、美しい町づくりを進める530運動のスタートを切った。
この運動は、毎年五月三十日と市民の日である十一月十一日を中心にして、数多くの市民が参加しておこなわれる。人々は、道路・公園などの公共施設や各家庭・職場・学校などの清掃をおこなう。六十年には二六万人を越える市民が参加している。
一人の市民の呼びかけからスタートした530運動は全国に広まり、五十三年には「530運動総連合」が発足した。その参加者は二〇〇〇万人を越えるといわれている。