夢と文化のある街

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 昭和五十一年(一九七六)、豊橋市民が待ち望んだ豊橋技術科学大学が開校した。この大学は、技術革新の時代を担う指導的な技術者を養成することを目的としてつくられた。それと同時に、地域の産業と密着した産学共同の研究も特色の一つである。
 この産学共同による成果としては、最近では、中部経済連合会の提唱によるトライアングル構想がクローズアップされている。また、地元への先端技術産業の誘致を促進するための基盤づくりとして、豊橋市や東三河開発懇話会などと共同で、サイエンス・クリエイト計画にも参加している。このように、豊橋技術科学大学は地元の産業振興に大きくかかわっている。
 一方、愛知大学も附属機関として中部地方産業研究所や綜合郷土研究所などがあり、地域社会との連携を深めている。昭和五十八年から市民への公開講座も開かれ、地域文化の殿堂としての役割を果たしている。
 昭和五十八年には豊橋短期大学が開学し、幼児教育科・秘書科の二科が設けられた。卒業生は東三河全域で活躍している。
 大学のある街、オーケストラのある街、いずれも誇らしい都市の顔である。昭和四十年(一九六五)に結成されて以来、神野(かみの)太郎の強力な支援と音楽監督森下元康(もとやす)の比類ない情熱で成長してきた豊橋リードフィルハーモニー交響楽団は、昭和五十年に豊橋交響楽団と改称した。新しい飛躍を求めての変容である。
 また、これより先の昭和四十七年には同楽団の呼びかけにより、日本アマチュアオーケストラ連盟が結成された。本部は豊橋に置かれ、全国アマ・オケのキーステーションとなった。平成七年、連盟は社団法人に任命され、加盟団体も一四六団体に達した。今後、日本と世界を結ぶネットワークづくりが期待されている。
 文化都市にふさわしい施設面・機能面などの環境整備は行政の肩にかかる。昭和四十七年、豊橋市社会教育審議会は、市民を取り巻く社会環境の急速な変化に対応するため、社会教育施設の充実をはかる必要があるとの重要な提言をおこなった。
 これを受けて、豊橋市は地区市民館建設構想を練り上げ、各中学校区に一館ずつつくることにした。そして、昭和四十九年に第一号として二川地区市民館が開館した。ここには、大集会室・図書談話室・高齢者室などがあり、高齢者大学や婦人教室などに活用され、地域コミュニティセンターとしての機能を果たしている。平成元年(一九八九)には、二一番めの本郷地区市民館が完成し、市内の全中学校区に設置された。さらに、五十四年から各小学校区ごとに校区市民館を建設し、市民の生活に密着した生涯学習施設の充実をはかっている。
 豊橋の文化活動の拠点となっていたのは、向山大池町にある市民文化会館であるが、市民文化活動の高まりとともに、展示機能の高い施設を求める声が市民の間に高まった。そこで、博物館と美術館の機能を兼ね備えた構想が立てられ、美術博物館が昭和五十四年につくられた。豊橋公園内の緑に囲まれた中で、市民の憩いの場として親しまれている。

豊橋市美術博物館

 この時期には、昭和四十九年の視聴覚教育センターをはじめ、地下資源館などの教育施設が次々とつくられた。また、五十八年に完成した中央図書館や平成三年にオープンした二川宿本陣資料館も好評である。そして、市制八十周年記念事業として、自然史博物館が建設された。これは大岩町の名古屋営林局二川緑化事業所跡につくられ、総合動植物公園内のセンター的な施設として全国から注目されている。
 
自然史博物館の建設
 恐竜アナトザウルスの化石を展示する自然史博物館の構想は、青木市長が昭和五十七年(一九八二)にデンバー自然史博物館を訪問したことから始まる。この時、博物館から恐竜の化石を譲渡する話があった。「豊橋の子供たちに夢のプレゼントをしよう」と考えていた青木市長は、恐竜化石を主体とした博物館構想を翌年市議会にかけ、承認を得た。そして、高橋市長に受け継がれて実現した。
 自然史博物館は六十三年にオープンし、アナトザウルスの化石展示を中心とした扇状に各展示室を配置したデザインとなっている。入口の恐竜の鳴き声は人気を博しており、タイムトンネルを通って恐竜の住む中生代へと運んでくれる。

アナトザウルスの化石