考古資料

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画像 タイトル 遺跡名など 時期 解説
有舌尖頭器 有舌尖頭器 三ツ山古墳 縄文時代草創期 古墳時代後期の三ツ山(みつやま)古墳の周溝から出土した打製石器で、付近から混入したものである。投げ槍の先端に装着したものと考えられ、バランスの取れた形状の東三河地方を代表する石器である。石器の表面に見られる連続した層状の剥離加工が見事で、製作者の卓越した技術が感じられる。 
縄文土器 縄文土器 水神貝塚(第2) 縄文時代晩期 牟呂地区は埋め立てによって内陸化しているが、かつて三河湾に突き出した小半島の先端で、縄文時代にハマグリの干し貝加工が専業的に行われ、大規模な貝塚が数多く営まれた。こうした貝塚は「ハマ貝塚」と呼ばれ、集落に伴う貝塚とは異なり、土器や道具類の出土が極端に少ない特徴がある。これらの土器は、ハマグリの煮炊きに使用したものだろう。
土偶 土偶 大蚊里貝塚 縄文時代晩期 大蚊里(おがさと)貝塚は、沖積地の自然堤防上に営まれた集落跡で、発掘調査では湿地の堆積土に保護されて土器や石器、獣骨などが多数出土した。土偶は縄文時代の精神文化を示すもので、魔除けや子孫繁栄を願って作られたものと考えられている。豊橋市内からの土偶の出土例が少ない中で、本例は頭部と体部を表現したものとして貴重である。
耳飾 耳飾 白石遺跡 縄文時代晩期 豊橋市北部の白石遺跡は、縄文時代の集落遺跡で石鏃を大量に製作した遺跡として知られている。耳飾は現在のピアスのように耳に穴をあけて装着したもので、あける穴はかなり大きく、小さなものからじょじょに広げていき装着したものと考えられる。
玉 白石遺跡 縄文時代晩期 白石遺跡は、縄文時代に石器を製作した集落遺跡で、大量の石鏃が出土した。玉は縄文人が身に着けた装飾品で、本遺跡で製作されたものかどうかは定かではないが、本市での出土は極めて珍しい。蛇紋岩製や長石製と考えられる変形勾玉や丸玉、管玉などがある。
貝輪 貝輪 大西貝塚 縄文時代晩期 縄文時代の東海地方を代表する貝塚のひとつである、大西貝塚から出土した。貝殻を使ったブレスレットで、太平洋の外洋で採取されるベンケイガイが使われている。本来は貝殻の外表面にあたる部分が鮮やかな茶褐色を呈するものだが、風化して白色に脱色している。
土偶形容器 土偶形容器 白石遺跡 弥生時代前期 縄文時代に作られた土偶は、その伝統を引き継いで弥生時代前期にも作られている。弥生時代になると、土偶は人物をかたどった容器である土偶形容器に変容した。
遠賀川式土器 遠賀川式土器 白石遺跡 弥生時代前期 白石遺跡は、東三河地方最古となる弥生時代前期の環濠(かんごう)集落跡でもある。遠賀川式土器は、北部九州から伊勢湾沿岸の広い地域に分布する土器で、壺・甕・鉢・高坏という縄文時代とは異なる器種構成からなり、水稲耕作を主体とする農耕文化に伴って西日本から伝わったものと考えられる。
打製石器・磨製石器 打製石器・磨製石器 瓜郷遺跡 弥生時代中期 弥生時代中期の東三河地方を代表する集落遺跡である瓜郷遺跡では、農耕文化に伴って西日本から波及した中国大陸系の磨製石器と、縄文時代の伝統を受け継ぐ打製石器の両者が併用されていた。前者には樹木伐採用の太型蛤刃(はまぐりば)石斧や木材加工用の扁平片刃石斧などがある。
打製石鏃・磨製石鏃 打製石鏃・磨製石鏃 橋良遺跡 弥生時代中期 石鏃とは、矢の先に着ける石製の矢じりのことである。弥生時代中期の橋良遺跡では、竪穴建物から表面がうち欠かれた打製石鏃や研磨された磨製石鏃が見つかっており、小さな穴をあけた有孔磨製石鏃と呼ばれるものも出土している。
壺棺 壺棺 西側北遺跡 弥生時代中期 牛川地区の台地上には、弥生時代の集落跡がいくつかある。西側北遺跡は沖積地に臨む台地の端にあたる遺跡で、そこから出土した本例は大型の壺を利用した棺であり、甕を蓋として使用していた。そのサイズから、恐らく子供用の棺であろう。壺の口が意図的に切り取られているのは、あたかも遺体の顔を見えるようにしたかのようである。
弥生土器 弥生土器 瓜郷遺跡 弥生時代中期 瓜郷遺跡は、東三河地方の弥生時代中期を代表する集落遺跡である。昭和22~27年に行われた発掘調査では、土器や木製品、骨角器など大量の出土品があった。中でも弥生時代中期中ごろの土器は、この時期の東海地方を代表する形状を示すものと認められ、「瓜郷式土器」という標識名が名づけられるきっかけになった。
方形周溝墓出土土器 方形周溝墓出土土器 橋良遺跡 弥生時代中期 橋良遺跡は、柱三番町交差点付近を中心に広がる弥生時代中期の環濠(かんごう)集落跡である。周りに溝を掘り込んだ方形の墓「方形周溝墓」が多数確認され、墓に備えられた土器が出土した。胴部に楕円形の穴が空いた土器は円窓付(まるまどつき)土器と呼ばれ、東海地方で多く確認される非実用的な土器である。
木製品 木製品 瓜郷遺跡 弥生時代中期~後期 瓜郷遺跡は沖積低地の自然堤防上に営まれた遺跡であり、遺構や遺物は洪水性の堆積層によって地中深くに埋まっている。水分が多い湿地状のところであるため、木製品などが腐らずに残っていた。鍬(くわ)や鋤(すき)などの農耕具を中心に、紡織具、木製の高坏や脱穀用の竪杵、槍状木製品などが出土している。
環濠出土土器 環濠出土土器 高井遺跡 弥生時代後期 牛川地区から高井地区の台地上には、弥生時代の集落跡がいくつも続いて分布しており、高井遺跡はその中心となる集落である。集落の区画や防御を意図した深さ2m以上の環濠(かんごう)で囲まれ、内部からはほぼ完全な形の土器が大量に出土している。環濠集落から大量の土器が出土する例は一般的に見られ、集落を離れるときに使っていた土器を環濠に廃棄したと考えられている。
紡錘車・鳥形土器 紡錘車・鳥形土器 高井遺跡 弥生時代後期 高井遺跡は、弥生時代後期の東三河地方を代表する環濠(かんごう)集落跡である。紡錘車は糸を撚るときに使う「はずみ車」で、当時中国大陸からもたらされた、龍と考えられる文様が線で描かれている。また鳥形土器は、鳥を模した土器の首の部分である。おもに祭祀に使用されたものだろう。
イモガイ製貝輪 イモガイ製貝輪 水神貝塚(第2) 弥生時代後期 貝輪とは、貝殻で作ったブレスレットである。水神貝塚(第2)から出土した貝輪は、奄美大島より南でしか採取されない南海産イモガイを使用しており、はるか1000kmを越えてはるばるこの地まで運ばれた。当時の交易・交流を考えるうえで極めて重要な資料である。本来は表面に茶褐色の美しい斑点文が見られるが、風化によって白色に脱色している。
加飾壺 加飾壺 境松・若宮遺跡 古墳時代前期 境松・若宮遺跡は、三河湾に突き出した小半島の先端近くに位置する弥生時代中期から古墳時代前期初頭の集落遺跡である。集落内に古式の方墳や円墳が存在し、このうち方墳であるSZ-1から本例が出土した。墓に供えられた専用の土器で、口縁部は二重になり端部には細かな貼り付け文が施され、体部は櫛描きの波状文が見られるなど豊かに飾られる。底に穴があけられた非実用的な底部穿孔土器である。
子持ち勾玉 子持ち勾玉 保美貝塚・白石遺跡 古墳時代中期 首飾りとして使われる勾玉に、小型の勾玉が貼り付いた形からこの名がある。大型のものは渥美半島の福江湾に臨む保美貝塚、小型のものは石巻山を仰ぎ見る豊橋市北部の白石遺跡から出土した。祭祀の場で使われた特殊な玉である。紐を通す穴は開いているが、吊り下げたかどうかは分からない。
石見型埴輪 石見型埴輪 水神古窯 古墳時代後期 水神(すいじん)古窯は、三河湾に臨む台地の斜面に設けられた古墳時代後期の窯跡で、須恵器(すえき)と呼ばれる古墳時代の陶器や、古墳の上に立てる埴輪が生産された。石見型埴輪は、奈良県石見遺跡から出土した同類形の例をもとに命名された埴輪で、豪族の権威を示す儀仗(儀式用の杖)の頭部をデフォルメして表現したもので、被葬者の権威を表現したものである。
須恵器把手付甕 須恵器把手付甕 水神古窯 古墳時代後期 水神(すいじん)古窯は、三河湾に臨む台地の斜面に設けられた古墳時代後期の窯で、須恵器と呼ばれる陶器や古墳上に立てる埴輪が生産された。須恵器とは古墳時代に朝鮮半島からもたらされた陶質土器を起源にする国産陶器で、水神古窯は全国に展開した初期の須恵器窯のひとつとして知られている。
円筒埴輪 円筒埴輪 三ツ山古墳 古墳時代後期 埴輪は、古墳の上に立てられたもので、墳丘の上に連続して並べた土管形の円筒埴輪や儀礼のシーンを表現した人物や器物をかたどった形象埴輪などがある。円筒埴輪は無数に並べて聖域を区画する意図を持たせたものである。埴輪が採用された古墳が少ない豊橋市内において、海浜部の三ツ山古墳では円筒埴輪や形象埴輪が豊富に出土している。
矩形立聞環状鏡板付轡 矩形立聞環状鏡板付轡 三ツ山古墳 古墳時代後期 三ツ山古墳は、三河湾に突き出した小半島の先端近くに立地する全長33mの前方後円墳である。発掘調査で後円部と前方部にそれぞれ石室があることが判明した。本例は前方部の横穴式石室から出土した鉄製馬具で、轡とは馬の口にくわえさせて乗馬の際に制御する器具である。環状を呈した鏡板の上に矩形(方形)の、ベルトを通すための穴が付くことからこの名前で呼ばれる。
金銅装馬具 金銅装馬具 馬越長火塚古墳 古墳時代後期 馬越長火塚古墳の横穴式石室からの出土品は、東海地方における古墳時代後期の首長墓の副葬品を代表するものとして、国指定重要文化財になっている。中でも金銅装馬具は、厚く金メッキされた豪華に馬を飾りたてる装具で、乗馬する人物の権威を遺憾なく発揮したステイタスシンボルだった。
棘葉形杏葉_2d棘葉形杏葉_3d 棘葉形杏葉 馬越長火塚古墳 古墳時代後期 馬越長火塚古墳出土の金銅装馬具のうち、最も重要なのはヒイラギの葉のような形から名づけられた棘葉形杏葉である。杏葉とは、馬の尻の側面に吊り下げた装飾で、現代の祭礼に見られる「飾り馬」でも使用されている。当時では流行の最先端となる意匠で、類似品には国宝に指定された沖ノ島祭祀遺跡出土品などがある。国指定重要文化財。
雲珠・辻金具 雲珠・辻金具 馬越長火塚古墳 古墳時代後期 馬越長火塚古墳出土の金銅装馬具のうち、馬具を装着するベルトが交差された部分に使用された金具で、十字形に交差する部分を固定したのが辻金具、複数を固定したのが雲珠である。いずれも半球形の鉢に先が尖った脚が付く。辻金具は17点以上出土しており、馬体に複雑に交差していたベルトの構造が推察される。国指定重要文化財。
飾金具 飾金具 馬越長火塚古墳 古墳時代後期 馬越長火塚古墳出土の金銅装馬具のうち、馬具を装着するベルトの表面につけられた装飾用の金具である。このうち半球形飾金具は直径2.5cm前後の半球形を呈し、中央に鋲を挿入してベルトとワッシャーで固定した。42点以上出土しており、ラメのように馬具全体を豪華に飾り立てたものである。
玉類 玉類 馬越長火塚古墳 古墳時代後期 馬越長火塚古墳出土の副葬品の中で、金銅装馬具と並んで重要なのは装身具の玉類である。大半は首飾りで使われたと考えられ、中でも2色以上のガラスを練り合わせて作成したトンボ玉には、国内でも類例が無い文様のものが見られる。このほか大型の琥珀製棗玉も重要である。国指定重要文化財。
須恵器 須恵器 馬越長火塚古墳 古墳時代終末期 馬越長火塚古墳の横穴式石室の入口前にある前庭では、古墳が築かれてから半世紀ほど後の7世紀半ばに祭祀が行われた。その時使用された須恵器の食器類は、前庭の1か所に集められて割られ、廃棄された。前庭の発掘調査では100点を超える須恵器が出土している。供膳具や貯蔵具などさまざまな器種が出土しており、祭祀の盛大さが偲ばれる。国指定重要文化財。
鳥鈕蓋付台付壺 鳥鈕蓋付台付壺 萬福寺古墳 古墳時代後期 萬福寺古墳は、嵩山町の萬福寺の境内にある直径約12mの円墳で、群集墳である奈木古墳群の一部である。全長8.3mの無袖形横穴式石室がある。市指定史跡。本例は石室内から出土した副葬品で、鳥鈕蓋付台付壺とは、鳥形装飾のつまみを付けた蓋がかぶさる台付きの壺である。愛知県を中心に、東海地域で特徴的に見られる装飾須恵器の一種で、 蓋の頂部には高さ8cmほどの鳥が形作られており、鳥はヘラなどの工具を使って目やくちばし・羽といった部分が簡略的に表現されている。
鳥鈕蓋付台付壺 鳥鈕蓋付台付壺 寺西1号墳 古墳時代後期 寺西1号墳は、台地上に築かれた直径25m、高さ4.5mの比較的大型の円墳である。未盗掘の横穴式石室から、大量の鉄器をはじめ乳文鏡や須恵器などが出土した。本例はその中のひとつで、愛知県を中心に東海地方に分布する鳥形装飾のつまみが付いた蓋を伴う台付きの壺である。鳥形装飾は、魂をあの世へ運ぶ鳥をかたどったものと考えられている。
子持壺蓋付台付壺 子持壺蓋付台付壺 寺西1号墳 古墳時代後期 寺西1号墳は、台地上に築かれた直径25m、高さ4.5mの比較的大型の円墳である。未盗掘の横穴式石室から、大量の鉄器をはじめ乳文鏡や須恵器などが出土した。本例はその中のひとつで、蓋の上に小型の壺を付けた台付きの壺である。装飾須恵器の一種で、類似例は東海地方の首長墓からおもに出土している。
円頭大刀柄頭 円頭大刀柄頭 磯辺王塚古墳 古墳時代後期 磯辺王塚古墳は、その名のとおり三河湾の海浜部に築かれた古墳である。墳形は不明だが、発掘調査で全長10mを超える大型横穴式石室が見つかった。副葬品として金銀で飾られた飾大刀のほか、玉類や耳環など豊富な装身具が出土している。円頭大刀とは、柄の先端に丸い装飾の柄頭をつけた大刀のことで、本例は大刀本体から分解されて柄頭だけが単体で出土した。鉄製の柄頭で銀象嵌文が施されており、亀甲繋文の中をタコのように簡略化された鳳凰文で充填している。類例は豊橋市内の四ツ塚3号墳でも出土している。
頭椎大刀 頭椎大刀 磯辺王塚古墳 古墳時代終末期 磯辺王塚古墳は、その名のとおり三河湾の海浜部に築かれた古墳である。墳形は不明だが、発掘調査で全長10mを超える大型横穴式石室が見つかった。副葬品として金銀で飾られた飾大刀のほか、玉類や耳環など豊富な装身具が出土している。頭椎大刀とは、柄の先端に握り拳のような装飾をつけた大刀のことで、本例は柄の先端から鞘の先まで金銅板で覆われた飾大刀である。壊れていくつかの破片になっているが、表面は緑青に混じって今も金メッキの鈍い光沢を放っている。
装身具 装身具 磯辺王塚古墳 古墳時代後期 磯辺王塚古墳は、その名のとおり三河湾の海浜部に築かれた古墳である。墳形は不明だが、発掘調査で全長10mを超える大型横穴式石室が見つかった。副葬品として金銀で飾られた飾大刀のほか、玉類や耳環など豊富な装身具が出土している。装身具には線状文や斑点文のトンボ玉のほか、残存状態が極めて良い中空の耳環があり、県内でも屈指の内容を誇る。また銅製腕輪は類例が静岡県に多く、当該地との海を介した交流を感じさせる。
大塚南古墳 出土品 大塚南古墳 出土品 大塚南古墳 古墳時代終末期 大塚南古墳の横穴式石室入口を発掘調査したところ、石室内から掻き出されるようにして金銅装馬具の破片が出土した。花形鏡板付轡、辻金具、雲珠からなる馬具のセットで、金メッキは長火塚古墳出土馬具に比べて薄く大半がはがれ落ちている。馬具の格も長火塚古墳に比べて劣るもので、長火塚古墳に続く首長の権威や地位が降格したことをものがたる。
金銅製品 金銅製品 口明塚南古墳 古墳時代終末期 発掘調査によって、口明塚南古墳の横穴式石室入口からわずかではあるが副葬品の一部が出土した。ここにあるのは金銅製の空玉(うつろだま)と鉸具(かこ)の輪金で、このほか毛彫文(けぼりもん)馬具の破片も出土している。高い技術で製作された金工品が副葬されていたことをものがたっている。
毛彫文馬具 毛彫文馬具 上向嶋2号墳 古墳時代終末期 上向嶋2号墳は、丘陵上に築かれた直径19mの円墳である。発掘調査で横穴式石室から金銅製の毛彫文馬具が出土した。毛彫文馬具とは、金メッキした金銅板の表面に毛彫り技法で文様を描いた馬具で、7世紀前半の東日本の古墳からおもに出土する。小型の馬具で、馬具の装飾性がじょじょに退化していく様子を示すものである。本例は東海地方を代表する毛彫文馬具でもある。
金銅装馬具 金銅装馬具 今下神明社古墳 古墳時代終末期 金銅装馬具は、銅板に金メッキされた馬具で、当時の権威の象徴としてヤマト政権から各地の有力豪族へ下賜されたものである。今下神明社(こんげしんめいしゃ)古墳が所在した老津町は、かつて「大津」と呼ばれ港として栄えたところであり、古墳時代には港を本拠地にした有力な豪族が居住したと推定される。
和同開珎 和同開珎 市道遺跡 奈良時代 市道(いちみち)遺跡は、三河湾にほど近い台地の上に展開した古代寺院及び豪族の居館と推定される遺跡である。和同開珎は富本銭(ふほんせん)に続いて国内で製作された古代の貨幣で、和銅元年(708)から鋳造が開始された。役所跡など公的な施設から出土することが多い遺物である。
陶馬 陶馬 中田古窯 奈良時代 浜名湖西岸の静岡県湖西市から豊橋市東部にかけて、古墳時代から奈良時代の須恵器(すえき)窯が1000基以上存在すると推定される、国内屈指の窯業生産地「湖西窯跡群」が存在する。そのうち豊橋市内の中田古窯では、1968年と1976年に合わせて12基の須恵器窯が発掘調査されている。出土した陶馬は祭祀に使用された馬の模造品で、鞍や手綱の表現が見られるなど乗用の馬を表現したものである。
火舎・鉄鉢 火舎・鉄鉢 市道遺跡 奈良時代 市道(いちみち)遺跡は、離接する古代の豪族の氏寺である市道廃寺と豪族居館からなっている。廃寺から出土した火舎はいわゆる香炉、鉄鉢は金属製の丸い鉢をかたどった須恵器のもので、いずれも仏具として寺院で使用された。
三彩 三彩 市道遺跡 奈良時代 三彩は奈良時代の高級陶器で、緑・黄・白の三色の釉薬を基本に使う。中国で製作された唐三彩や国産の奈良三彩がある。三彩は公的な施設から出土する事例が多く、愛知県内では市道(いちみち)遺跡や岡崎市の北野廃寺などでわずかに出土しているだけである。
瓦・瓦塔 瓦・瓦塔 市道遺跡 奈良・平安時代 市道遺跡は、古代の豪族居館跡と豪族の氏寺跡(市道廃寺跡)と考えられる遺跡である。瓦は廃寺に使われたもので、軒丸瓦や軒平瓦が多数出土している。瓦塔は、木製の塔に代わって室内に設置した焼き物の小型の五重塔で、部材を組み合わせている。本例は身舎の部分である。
灰釉陶器 灰釉陶器 苗畑5号窯 平安時代 灰釉陶器とは、わら灰などを釉薬の原料にして施釉された陶器で、尾張地方の猿投(さなげ)窯やその周辺で開発された。二川地区とその周辺でも猿投窯から技術が移植され、灰釉陶器の生産が盛んに行われている。その代表例として、苗畑5号窯本体は総合動植物公園内の地中に保存されて市史跡に、豊富な出土品は市有形文化財にそれぞれ指定されている。
緑釉陶器 緑釉陶器 苗畑5号窯 平安時代中期 緑釉陶器は鉛釉を使用して緑色に焼き上げた高級陶器で、無釉で素地を焼成した後施釉して再度焼成する。当初は中央の官営工房で生産されていたが、やがて地方の国衙工房に生産が移ったとされる。二川窯は灰釉陶器窯であるが、緑釉陶器も少量生産していた。
鬼瓦 鬼瓦 苗畑5号窯 平安時代中期 灰釉陶器を生産した苗畑5号窯は、ごく僅かではあるが瓦を生産した瓦陶兼業窯でもある。出土した鬼瓦は顔面の下部しか残存していないが、ゆがんだ唇や突き出した頬骨、吊り目の表現などにユーモラスながら邪悪なものを払う威圧を感じさせる。
蓮弁文壺 蓮弁文壺 野依町出土 平安時代後期 中世渥美窯では、装飾性に秀でた製品や宗教用具などが生産された。蓮弁文壺は、壺の肩部に蓮の花びらのような文様を線刻したもので、渥美窯で専業的に生産され、当時の高級品として全国に運ばれ、経塚の経筒外容器などにも使用された。本例は野依町の中世墓で古瀬戸製品とともに出土したもので、口縁部を意図的に取り除き蔵骨器(骨壺)として使用された。
墨書土器 墨書土器 普門寺旧境内 平安時代後期~鎌倉時代 静岡県境近くにある普門寺(ふもんじ)は平安時代から続く山岳密教寺院で、背後の船形山にはかつての境内跡の遺構が良好に残っている。元堂址は本堂跡のひとつで、平安時代後期に築かれた人工の池の中からは、儀式や法会に際して投げ入れられた土器や木製品が多数出土した。土器の多くには「施入」「大房」「御堂」「万善」「長力」などの墨書が見られ、参詣者と寺内組織との関係や呪術的な意図などが表現されたと考えられる。
草花双鳥鏡 草花双鳥鏡 豊川河床遺跡 室町時代 豊川河床遺跡は、豊川流路内であるにもかかわらず遺物が採集されるところで、川の神を祀る祭祀が行なわれた場所と推定されている。本鏡は河川工事に際して偶然採集されたもので、擬漢式鏡に分類され、草花と2羽の鳥が鏡背に表現される。文様は緻密で残存状態は良好である。
菊花双鳥鏡 菊花双鳥鏡 西側遺跡 戦国時代 西側遺跡は戦国時代の集落跡で、区画溝に囲まれた屋敷地跡のほか、地下倉庫もしくは宗教施設と推定される地下式坑(ちかしきこう)が多数見つかった。本鏡は擬漢式鏡に分類されるもので、鏡背には菊花と向かい合う雀のような2羽の鳥が表現される。崩落した地下式坑の埋土内から、鏡背を上にして据え置かれた状態で出土した。
土師器皿 土師器皿 吉田城址 戦国時代 吉田城址は、戦国時代から江戸時代にかけて東三河地方の中心的役割をになった城跡で、豊橋公園とその周辺には石垣や土塁、堀などの遺構が今も残る。発掘調査で豊富な遺構・遺物が出土する豊橋市を代表する遺跡である。戦国時代の土師器皿は、室町幕府の定めた方法に則って行う儀礼や宴席に使用された素焼きの皿で、1回の使用でけがれたと見なされて捨てられるため、発掘調査では完形品が大量に出土することが多い。
戦国時代の遺物 戦国時代の遺物 吉田城址 戦国時代 吉田城は、16世紀末ごろに牧野氏が築いた今橋城から始まる城で、中世から近世にかけて東三河地方の拠点であった。戦国時代の城の遺構は近世吉田城の遺構とともに地中によく残されており、発掘調査では瀬戸美濃窯産の陶器や中国産の磁器、在地産の土師器などが大量に出土している。
在地産土師器 在地産土師器 吉田城址 戦国~江戸時代 土師器は弥生土器の伝統を引き継ぎ、古墳時代から日本列島でつくられ続けた素焼きの土器で、近世まで盛んに用いられていた。陶器は瀬戸や美濃などで生産されて流通したのに対し、これらは東三河平野部で在地生産された消耗品として土器であり、戦国・江戸時代には饗宴や燈明具として使われた皿、煮炊きに使う鍋、焙煎に使う焙烙(ほうろく)などが生産された。
織豊期の瓦 織豊期の瓦 吉田城址 安土桃山時代 瓦はもとは寺院に使用されるものであったが、織田信長によって建物の荘厳化を意図して城に採用され、豊臣秀吉が権威の象徴としてさらに城に普及させた。吉田城では秀吉の家臣である池田照(輝)政が城主のときに瓦が採用され、軒丸瓦や軒平瓦のほか、棟を飾る小菊瓦や輪違瓦などが出土している。
桐文鬼瓦 桐文鬼瓦 吉田城址 安土桃山時代 安土桃山時代の城郭には、建物の荘厳化を意図して寺院などで使われていた瓦が全国で採用された。桐文は天皇家の家紋が豊臣秀吉に下賜されたもので、一部の重臣には秀吉によって桐文の使用が許された。池田照(輝)政は秀吉からの信頼が厚く、屋根の最も目立つ鬼瓦や軒平瓦での使用が認められている。
近世の瓦 近世の瓦 吉田城址 江戸時代 近世の吉田城は櫓、門、塀、藩士の屋敷などに瓦葺の建物があった。発掘調査では一般に多く使われる三巴文の軒丸瓦や唐草文の軒平瓦・軒桟瓦のほか、藩主の家紋が施された家紋瓦も出土している。確認された家紋は、水野家(丸に沢瀉文)、牧野家(丸に三つ柏文)、小笠原家(三階菱文)、本庄松平家(繋ぎ九つ目結文)、久世家(丸に並び鷹の羽文)などがある。
近世の食器 近世の食器 吉田城址 江戸時代 近世になると、平穏な時代背景のもとに食文化が発達してさまざまな料理が生まれたほか、食器も多様化し色彩や装飾にこだわるものが現れた。陶器は中世以来の瀬戸美濃窯製品のほか、新たに現れた全国の諸窯の製品が流通した。また磁器は肥前(佐賀県)の製品が多量に流通し、吉田城址でも肥前製品が多く出土している。このほか木製の漆椀や箸、金属製のさじなど、現代と同様に材質を分けた食器が用途に応じて使い分けられた。
近世の玩具 近世の玩具 吉田城址 江戸時代 近世は平穏な時代背景のもと、飛躍的に文化が発展した時代である。余裕が生まれた人々は趣味に興じ、子供向けの玩具も発達した。これらの玩具類は吉田城址の武家屋敷地から出土したもので、当時の藩士やその子弟たちが使った土人形、土笛、箱庭のパーツなどである。
吉田城本丸ジオラマ 吉田城本丸ジオラマ 吉田城址 現代 吉田城本丸の北側、豊川に面した一帯を表現したジオラマである。本丸の北側一帯は城内でも荘厳に飾られた総石垣づくりで、実際の天守である鉄櫓(くろがねやぐら)や三重櫓の川手櫓、二重の入道櫓や雷櫓などが建ち並ぶ重厚な景観を形成していた。これは、吉田城が豊川や吉田大橋からの景観を最大限に意識して整備されたことを示しており、豊川との関係を重視した「川城」として面目躍如といった観がある。その優れた景観を「吉田城本丸二之丸略絵図」や幕末の古写真をもとに再現したのがこのジオラマである。