近世絵画
豊橋市美術博物館の所蔵資料のうち、おもに江戸時代に制作された屏風、掛け軸、浮世絵を紹介します。明治・大正期に描かれた崋椿系画家の作品も含みます。
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画像 | タイトル | 作成者 | 年代 | 解説 |
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東海道図屏風 | 江戸時代 | 江戸から大津までの東海道を上下二段に分けて描く。右隻上段を江戸から吉原まで、左隻上段を蒲原から掛川まで進み、再び右隻に戻って下段を袋井から鳴海まで、左隻下段を宮から大津まで進む。 | ||
東海道図屏風 | 江戸時代 | 江戸から京までの東海道を4隻で描いた屏風。第1隻目は江戸から箱根、第2隻目は三島から掛川、第3隻目は見附から鳴海、第4隻目は宮から京。街道図屏風は上下二段で描かれることが多いが、本作は一段で描く。 | ||
山水図屏風 | 稲田文笠 | 安政元年 | 稲田文笠は、江戸で谷文晁に南画を学び、後に吉田藩御用絵師として藩主松平信古の画の師となった。 | |
花卉図屏風 | 渡辺如山 | 天保7年 | 梅・牡丹・海棠・柘榴・鶏頭・水仙・菊などの花を描く。渡辺如山は、渡辺崋山の末弟。椿椿山の画塾に入って絵を学び、高い評価を得て将来を期待されたが、22歳で早世した。 | |
海鶴遐齢図 | 渡辺小華 | 安政元年 | 海辺の松と鶴を描く。「遐齢」は長寿を意味する言葉。渡辺小華は渡辺崋山の次男で、椿椿山の画塾で学んだ。本作は江戸で修行中、20歳の時の作品。 | |
花鳥図(竹下双鶏之図) | 渡辺小華 | 明治4年 | 竹の下に雌雄の軍鶏を描く。雌が虫をつつこうとし、雄がそれを見守る。この画題は椿椿山に連なる画家たちがほぼ同じ構図で描いている。 | |
蔬果図 | 渡辺小華 | 明治7年 | S字に花卉や蔬菜を配する構図は、師の椿椿山も用いている。本作は、柿・柑橘・葡萄・柘榴などの果物、大蒜・大根・蓮根・芋・冬瓜などの蔬菜を描く。 | |
蓮池白鷺之図 | 渡辺小華 | 明治8年 | 豊橋へ移住して約1年後の作品。水墨の濃淡によって立体感を表している。渡辺小華は明治7年から15年まで豊橋を拠点に活動し、多くの門人を指導した。 | |
老圃秋容図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | 水墨風の松と太湖石、没骨あるいは鉤勒の技法で彩色された花卉を組み合わせて描く。 | |
十二景図屏風 | 原田圭岳 | 明治17年 | 各月(旧暦)の祭礼や行楽など、吉田の風物詩を描き、12面に構成する。西尾出身の原田圭岳は、京で円山派や四条派の画法を学び、安政大地震後に吉田へ移住した。 | |
花鳥図 | 鈴木拳山 | 明治34年 | S字形の構図に崋椿系の影響がみられる。鈴木拳山は、稲田文笠に師事し、各地を遊歴した後に帰郷した。文晁系の画風を受け継いだが、明治中期以降は崋椿系の画法も取り入れた。 | |
岳陽大観図 | 鈴木拳山 | 明治44年 | 范仲淹の散文『岳陽楼記』の一節にちなんで、洞庭湖とその畔に建てられた岳陽楼の景観を描く。 | |
魚介図 | 鈴木拳山 | 明治44年 | 鈴木拳山は山水画・花鳥画・人物画と何でもこなしたが、特に魚介の作品を得意としていた。 | |
前赤壁之図 | 井村常山 | 大正元年 | 宋の詩人蘇東坡の「前赤壁賦」に取材する作品。井村常山は、明治12(1879)年頃から渥美郡書記として豊橋に居住し、渡辺小華に師事した。当時は書を得意としており、本格的に南画を学ぶのは名古屋へ居住した明治19年からといわれる。 | |
東海道五十三次 吉田(保永堂版) | 初代歌川広重 | 天保4年頃 | 初代歌川広重は数多くの「東海道五十三次」シリーズを手がけたが、代表作とされるのが「保永堂版」と呼ばれている本シリーズである。吉田は右手前に修理中の吉田城、左奥に吉田川(豊川)にかかる吉田橋を描く。 | |
文政十三庚寅春御影参道の粧 | 玉柳亭重春 | 文政13年 | 文政13年に流行した「おかげまいり」の様子を描く。大坂で出版され、参宮人がかぶる菅笠には近畿地方以西の地名がみえる。施行を受ける柄杓を持つ人、施行駕籠や施行馬に乗る人などが描かれている。 | |
伊勢参宮略図 | 初代歌川広重 | 安政2年 | 手前に外宮参拝の様子が描かれ、参宮人の手には「おかげ」の幟がみられる。後方には二見の浦、内宮、朝熊山、宇治橋、古市、間の山、天の岩戸などが描かれている。これらの範囲は、参宮の際に訪れる場所であった。 | |
京都加茂川遊覧ノ図 | 一英斎芳艶 | 安政3年 | 鴨川の浚渫工事の様子を描く。工事を請負わされた京都の人々は、これを祝祭的にとらえ、各町から山車を出し、揃いの衣装をまとって盛り上がりをみせた。集団的に熱狂する民衆行動は、のちの「ええじゃないか」と共通性がみられる。 | |
豊饒御蔭参之図 | 歌川芳幾 | 慶応3年 | 「ええじゃないか」が流行しはじめた慶応3年秋に出版された。伊勢神宮の幟を掲げた参宮者や表題の「御蔭」などから、「おかげまいり」が意識されていたことがわかる。同年冬に再版された際は、お札以外に仏像や小判なども降っている様子に描き直された。 |