文献資料
豊橋市美術博物館の所蔵資料(『三河国名蹤綜録』は寄託資料)のうち、古文書、古典籍、刷物を紹介します。
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画像 | タイトル | 作成者 | 年代 | 解説 |
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池田照政消息 | 池田照政 | 安土桃山時代 | 池田照政(輝政)の消息。花押の形から、関ヶ原の戦い以前、吉田城主時代のものと推定される。宛名の人物は在国中であり、こちらで用向きがあれば承ると伝え、小袖を贈っている。 | |
吉田宿伝馬朱印状 | 慶長6年 | 関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、翌年1月より街道や宿駅の整備に着手した。伝馬朱印状は、この時各宿に下付されたもので、朱印が押印されている。本文には、この朱印を持たない者には伝馬を出してはならないと記載してある。 | ||
三河国吉田名蹤綜録 巻首 | 山本貞晨 編 | 文化3年頃 | 吉田城下やその近辺の寺社・祭礼・名所・旧跡・地名の由来などについて、旧記や古文書を引用して紹介した地誌。当時流行していた各地の名所図会に倣って編集された。彩色挿絵49点を掲載する。 | |
三河国吉田名蹤綜録 吉田宿 | 山本貞晨 編 | 文化3年頃 | 吉田宿の中心である札木町を描く。中央に人馬の継ぎ立てをおこなう問屋場、右側に触書を掲示する高札場がある。時期は正月で、家々の入口には門松が飾られている。 | |
三河国吉田名蹤綜録 御衣祭 | 山本貞晨 編 | 文化3年頃 | 御衣祭とは、伊勢神宮へ奉納する白絹布を吉田の湊神明社へ運び、船町から船で伊勢へ運ぶ祭礼。町家の娘たちが華やかな衣装や装飾品で着飾り、集団で練り歩く様子を描く。 | |
三河国吉田名蹤綜録 天王祭礼花火 | 山本貞晨 編 | 文化3年頃 | 毎年6月中旬に行われた吉田天王社(現吉田神社)の祭礼は、花火で有名であった。立物花火や大筒花火で盛り上がる城下町の様子、打ち上げ花火を見るため屋根に上った観衆などを描く。 | |
三河国吉田名蹤綜録 吉田川 | 山本貞晨 編 | 文化3年頃 | 吉田川(豊川)にかかる吉田橋と船町の様子を描く。吉田橋は、浮世絵の題材になることも多く、吉田を象徴する場所であったといえる。船町一帯の川岸は吉田湊と呼ばれる繁華街で、吉田川舟運と海運の結節点として栄えた。 | |
三河国吉田名蹤綜録 魚町 | 山本貞晨 編 | 文化3年頃 | 魚問屋が集まり、吉田城下最大規模の町であった魚町の賑わいを描く。遠州灘で獲れた魚の集積地で、藩によって保護された魚市場があった。昼夜を問わず荷を運ぶ馬の音が絶えることがなかったという。 | |
伊勢大和廻りひとり案内図 | 安永7年 | 伊勢山田の藤原長兵衛と京寺町の菊屋喜兵衛が発行した道中案内図で、旅客誘致の引札を兼ねる。伊勢参宮の旅行者は、あわせて畿内廻りや金毘羅参詣をすることもあったため、同様の案内図が数多く発行された。 | ||
おかげで抜廻 | 文政13年 | 相撲の番付にならい、様々な事柄に序列をつけた「見立て番付」の一種。文政13年の「おかげまいり」の際に出版され、吉田宿での施行内容を紹介している。施行行為は、藩からの触書を無視して次第にエスカレートしていった。 | ||
東海道吉田宿惣町御かけの次第 | 江戸時代後期 | 吉田城下の各町でおこなわれた施行や催しをまとめて印刷したもの。吉田は東海道の宿場町であったため、こうした情報は東西へ伝達されて広まった。 | ||
末代記録神国賑 | 慶応3年 | 慶応3年10月下旬に大坂で降ったお札の情報を掲載した刷物。上部に屋根の上でお札を拾う人々、伊勢神宮へ向かう「おかげまいり」の群衆、諸国で踊る人々、降ってきたお札をまつる図が描かれている。 | ||
諸国御札ふり出し双六 | 歌川芳藤 | 慶応3年 | 「ええじゃないか」騒動を反映した双六。上部に描かれている神々のコマが上がり。神々が降らせるお札を神職や武士など様々な人がいただこうとしている。上部の詞書には、お札は豊年の知らせであるから、疑わずに敬い信心するようにと書かれている。 | |
三州豊橋関屋街 諸国出船会社引札 | 明治時代前期 | 江戸時代の吉田は湊町でもあり、伊勢へ向かう船は参宮者の利用が多かった。明治に入って旅客を運ぶ船会社が設立されると、伊勢湾上に複数の航路ができ、日々蒸気船と和船が行き交った。 |