近代絵画(明治~昭和前期)

洋画(油彩・水彩画)を中心に明治期から昭和前期(戦前)に手がけられた作品を紹介します。岸田劉生を中心とする草土社系作家の写実的な絵画作品は当館の美術コレクションの核をなしています。

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画像 タイトル 作者名 制作年 解説
自画像自画像大澤鉦一郎1921草土社名古屋展で岸田劉生らの作品を目にした大澤鉦一郎は、研究グループ愛美社を結成して宮脇晴らとともに写実表現の探求を行った。眼光鋭く挑むかのような表情を浮かべる自身を描いた本作でも、対象の本質に迫ろうとする真摯な姿勢がうかがえる。
麻の着物麻の着物岡田三郎助1929白馬会の創設に参加し、第1回文部省画学生として渡仏した岡田三郎助は、時代を追うごとに淡い色調とマットな質感を好むようになった。甘美な女性像を得意としたが、本作はやや印象が異なり、モデルの身体的特徴や個性に迫っている。着物の細密な描写は染織工芸品の収集家であった岡田ならではの表現である。
自画像23自画像23筧 忠治1930画壇に属さず、同時代の美術潮流も意に介さず、身の回りにあるモチーフを描き続けた筧忠治にとって、自画像は17、8の頃から手がけたライフワークである。褐色のインクで自身の顔を画面一杯にとらえるスタイルに移行したのは1930年代。真正面からこちらを見据える気迫のこもった表情は見るものに強い印象を残す。
裸体の写生裸体の写生鹿子木孟郎1906フランスに留学して西洋絵画の基礎を身に着けた鹿子木孟郎は、外光派全盛の洋画壇の中では旧派に位置づけられた。本作は門人を率いて2度目の渡仏を試みた際の課題作と思われる。自ら一学生として「峻烈なる油画裸体写生の研究に没頭」したという。背景に描き込まれた画学生の姿から当地の美術学校の様子もうかがえる。
自画像自画像岸田劉生1913数多くの自画像を残した作家岸田劉生は、青年期に日記を書くように自身の相貌を描き続けた。粗いタッチで身体の特徴と量感を克明にとらえようとする姿勢がうかがえる本作は、モダニズムの影響を脱しつつある過渡期の作にあたる。21歳の青年の若々しい生気が伝わる1点でもある。
髙須光治君之肖像髙須光治君之肖像岸田劉生1915モデルは豊橋出身の草土社同人画家。この頃、劉生はデューラーやファン・アイクなど、北方ルネサンスに傾倒し、写実表現を探求していた。徹底した細密描写は時代に逆行するとの批判を浴びたが、劉生は対象への肉迫によってその内実に迫ろうとした。当館が草土社同人の収集を始める契機となった作品。
卓上林檎葡萄之図卓上林檎葡萄之図岸田劉生1918岸田劉生が静物画に取り組み始めたのは、療養のため駒沢に移った1916年から。「其処に在るてふことの不思議さ」を描き出そうとした劉生は、「深く写実を追求すると不思議なイメーヂに達する。それは”神秘”である」ことを静物画に見出した。林檎の前に朽ちた葡萄を置いた構図に劉生らしい趣向がうかがえる。
水浴水浴北川民次1932アメリカ滞在を経て1921年にメキシコに移住し、36年に帰国するまで現地の風物を描いた北川民次。本作を手がけた頃はセザンヌやゴーギャンに傾倒し、水浴図にも取り組んでいる。しかし、ここでの裸婦は女性美の象徴ではないようだ。デフォルメされながらも皮膚の様子も生々しく、水や樹木の描写とあいまって異様な印象である。
午後午後鬼頭鍋三郎1935岡田三郎助や辻永に師事した鬼頭鍋三郎は、優美な女性像を描いて帝展に入選を重ねた。本作が出品された第二部会とは、1935年に帝展改組に反対する無鑑査の有志らによって結成された組織。昭和初期のモダンな女性たちを描いた。本作は、揺れ動く画壇の中で気概を示した作品でもある。
襟巻きをせる自画像襟巻きをせる自画像木村荘八1916白馬会の研究所時代から岸田劉生と行動を共にした木村荘八は、劉生同様多くの自画像に取り組んだ。本作は1916年4月の草土社第2回展に出品された未完成作と推定される(この年11月の3回展にも未完成作が出品されている)。帽子は当初大きく輪郭がとられていたようで、背後のカーテンにその跡が残る。
夕陽夕陽黒田清輝1898黒田清輝がフランスより帰国して精力的に活動を展開した時期の作。日暮れ時の紫色を帯びた山影や波打ち際、湖畔の茫洋とした表現に、当時の洋画壇の主流となった新派(紫派)の特徴が良くあらわれている。黒田はこうした軽妙なタッチによる油彩スケッチを数多く手がけているが、本画とはまた違った生き生きとした味わいがある。
横浜風景横浜風景河野通勢1924岸田劉生がクラシックの影響を離れ、東洋的な画趣を追求すると、河野通勢も風俗画に新たな境地を見出した。明るい色調と素朴なタッチで描かれた本作も、そうした方向性を示す1点。裏面にはにぎやかなダンスホールの様子が描かれているが、窓外の海や船舶などの様子から、裏面も横浜に関連した情景ではないかと推測される。
厨房厨房佐分 眞1930頃帝展で活躍した佐分眞は、二度にわたって渡仏し、古典絵画のほかセザンヌなどから強い影響を受けた。滞仏中に描かれたこの作品にも、安定感ある人物表現や構図にその成果をみることができる。モデルは恋人のアリスとその友人ギャビー。作家の滞欧生活を垣間見せる1点でもある。
紐育イースト・サイドの人々紐育イースト・サイドの人々清水登之19211907年に画家を志して渡米した清水登之は、ニューヨークのアート・ステューデンツ・リーグに学んで市民生活をありのままに描くアメリカン・シーンの影響を受けた。高架下の露店とそこに集う人々を描いた本作では、子供を連れた黒いドレスの女性を中心に、多様な人種と階層が混在する喧騒に満ちた街の様子を活写している。
砂利の敷いてある道砂利の敷いてある道椿 貞雄1916椿貞雄は草土社を牽引した岸田劉生の理念に最も共鳴し、その影響を受けた。代々木時代には劉生の近くに住み、共に写生に出かけ、同じ景色を描いている。身辺の素朴な自然に目を向け、草の一本、砂利の一粒まで克明に描いた画面から、冷たく乾いた冬の空気や土の感触が伝わってくるようだ。
鶏頭持てる村の婦鶏頭持てる村の婦椿 貞雄1920椿が劉生とともにクラシックの感化を受けた時期の作品。モデルは画家の妹・孝子。劉生も日記で「椿の今度の妹の肖像は感心する。一寸シゲキを受ける」と賞賛している。手に草花を持つポーズは、劉生が好んだ西洋古典絵画に由来するが、小さな炎のような緋色がモデルの表情とともに緊張感を高め、神秘的な印象を添えている。
人物(A)人物(A)中西利雄1935強く鮮やかな色彩が目をひく本作は、油彩ではなく水彩で描かれている。4年間のパリ滞在を経て帰国した中西利雄が次代を担う水彩画家として意気盛んに制作発表を行った頃の作品である。中西は透明水彩と不透明水彩を混交させた技法で油彩画に比して遜色のない水彩画をめざしていた。
少女(ゆき)少女(ゆき)野島青茲1937頃モデルは作者の妹ゆき。画の特徴から野島が東京美術学校を卒業する前後の作と思われる。当時女学生であった妹が、菊花の写生にはげむ姿を描いている。戦後、野島は日展で舞妓などの女性美を追求するが、本作はその志向を示した早い時期の作品といえる。
婦人像婦人像藤島武二1920浪漫主義の画家として知られた藤島武二はこの頃、女性像のバリエーションを数多く手がけている。西洋的な顔立ちのこの女性は、強い眼差しと物憂げな風情から世紀末美術に登場したファム・ファタル(宿命の女)を思わせる。着物の上から肌色を加筆しているが、胸元をあらわにすることで、そうした傾向を強めようとしたのだろう。
毛皮の衿のオーバーの女毛皮の衿のオーバーの女松下春雄1932頃1923年に名古屋で美術グループ・サンサシオンを結成し、その中心的役割を担った松下春雄は、重厚なタッチで人物画を描いた。本作ではモダンなファッションに身を包んだ若い女性をモデルとしている。額絵が壁に立てかけられた室内は画家のアトリエだろう。松下の生涯は短く、白血病のためわずか30歳でこの世を去った。
葡萄栗鼠葡萄栗鼠松林桂月1936渡辺崋山・椿椿山の流れを汲む松林桂月は、明治の文展から戦後の日展を拠点に南画の近代的なあり方を探求した画家である。本作では墨の濃淡、にじみやぼかし、渇筆など、多様な水墨の技法が用いられている。竹の垂直線に対し、葡萄の蔓は曲線による広がりをみせ、その動きを追うことで主題であるリスの姿も確認できる。
瀧丸木位里1943頃「原爆の図」で知られる丸木位里は、戦前より前衛活動を行った水墨画家である。本作はその頃に手がけられた実験作のひとつで、自然の景を主題としながらも、点描による画面構成に重点が置かれている。個展会場では左に90度傾けて展示されていた。天地左右、瀧と渓流、岩窟や樹林の関係も自在に見ることができるのだろう。
狐塚風景狐塚風景三岸好太郎1923くすんだ青空に草地というテーマは、草土社的であるが、窓の無い家を中央に置くことで不思議な気配が漂う。この頃、春陽会で頭角を現した三岸は「静かに朗らかな雰囲気、又その内に浮漾する或る唐突さを感じさせるグロテスクな又ファンタスティックな感じ」を表現したいと語っている。狐塚とは池袋と目白の間の小高い丘のあたり。
母の肖像母の肖像宮脇 晴1919宮脇晴は9歳年長の大澤鉦一郎を師と仰ぎ、古典絵画の模写をしながら研鑚を積んで愛美社結成に参加した。この頃、母を繰り返しモデルに描いている。老母の顔の皺や鬢の毛一本まで克明にとらえた緻密な描写には、対象を客観的にとらえようとする姿勢がうかがえる。17歳の宮脇の早熟な画才を示す1点。
風景風景横井礼以1916文展や二科展を拠点とした横井礼以(本名禮一)。本作は草土社が注目を集めた時期に手がけられ、写実的な描写にその影響がうかがえる。ただし、画家の関心は草土社の好む地面や路傍ではなく、建て込んだ町並みに向けられているようだ。軒先の洗濯物や植え込みなどの細やかな描写に人々の暮らしぶりが感じられる。
春嶺春嶺横山大観1923富士は大観が生涯にわたって描いた画題で、その数1,500ともいわれている。本作は後年の写実的な富士と異なり、象徴的に描かれているが、微妙な墨のにじみやぼかしであらわされた空気や光の表現に深い味わいが感じられる。この頃、大観は中国の古墨を収集し、水墨画に冴えた画技をみせていた。
宇治風景宇治風景和田英作1912和田英作はフランスから帰国後、日本各地を取材しその風物を描いている。本作では蛇行する宇治川の向こうに十三重の石塔を配して東洋的な趣を添えている。1286年建立のこの石塔は18世紀半ばの洪水で倒壊し、1907年に発掘・復元された。この画にみるような水面の反射や水流の巧みな表現は和田の得意とするところであった。