愛知環状鉄道

 

(あいちかんじょうてつどう)

【現代】

愛知環状鉄道の前身ともなった岡多線は、昭和32(1957)年4月鉄道建設審議会で、岡崎-多治見間が調査線に編入され、昭和34年11月さらに工事線に格上げされて具体化、設計が進められることになった。昭和40年8月、鉄道建設公団により計画線の南半分にあたる東海道本線岡崎駅から豊田市までの区間が着工した。昭和42年1月、豊田-瀬戸間でも工事がスタートした。国鉄(現JR)としてはこの線を、飽和が予想されていた東海道本線名古屋近郊区間のバイパスと位置付け、瀬戸-稲沢間の予定線(仮称「瀬戸線」)と結んで貨物列車をこちらへ回すことで東海道本線の旅客輸送を充実させることを目論んでいた。昭和37年に、瀬戸線(瀬戸-稲沢)が鉄道敷設法に追加され、昭和48年2月、瀬戸-高蔵寺間で工事が着手した。昭和45年10月、国鉄岡多線として初めて部分的営業を開始した。岡崎-北野桝塚間8.7kmの貨物輸送のみであった。岡多線は、昭和51年4月ようやく豊田市まで開通し、岡崎-新豊田間19.5kmで旅客営業が始まった。豊田市内には三河上郷、永覚、三河豊田、新豊田の4駅が設置されたが、1日13往復しかなく、昼は2時間も間があくときがあった。岡多線の営業指数(経営状態を表す指標)は数百という不振が続いた。国鉄は岡多線・瀬戸線について「輸送量に期待できず、ローカル線の廃止・転換が進められているなかで、新たに地方交通線の開業はできない」と、昭和59年7月、愛知県に同線の第三セクター化を申し入れた。すでに国鉄線を前提とした岡崎-新豊田-高蔵寺間の全線開通が間近に控えていた。この申し入れに愛知県は、沿線4市(岡崎市・豊田市・瀬戸市・春日井市)とプロジェクトチームを設置し、第三セクター化に向けて積極的な取り組みを始めた。沿線の商工会議所、市町など地元の強い支援があってムードは盛り上がり、同年8月、愛知県・4市が地元出資の第三セクターによる運営に合意した。昭和61年8月の第1回特定地方交通線対策協議会で一気に代替輸送計画まで決定、未開業区間の新豊田-高蔵寺間も含めて愛知環状鉄道が運営を引き受けることで合意した。同年9月には継承事業体として愛知環状鉄道株式会社を設立し、受け皿を整えた。受け皿が明確になったことで、豊田以北の仕上げ工事が鉄建公団により再開され、全通に向けて準備が進んだ。昭和63年1月30日をもってJRによる営業に終止符が打たれ、翌1月31日から愛知環状鉄道が営業を開始、既設区間とともに、完成した豊田以北の区間を含め、岡多線として予定された岡崎-高蔵寺間全線(45.3km)を引き継いだ。愛知環状鉄道の設立には、自治体だけでなく、地元の企業や大学なども出資するなど、官民あげての体制となった。開業時には、各駅周辺の地域住民が総出で門出を祝った。愛知環状鉄道は、開業して3年が過ぎると、沿線の人々の足として定着し、利用客数は順調に推移し、開業5年目にして累積赤字を解消した。

『新修豊田市史』関係箇所:5巻362ページ、14巻61・67ページ