『愛知日日新聞』

 

(あいちにちにちしんぶん)

【近代】

漸進主義を掲げた立憲帝政党系の新聞。皇室の尊奉、実業の振起、政治の改良、教育の推進などを掲げた。明治16(1883)年10月16日に第1号を発刊し、10月20日に開業式を挙行した。名古屋区伝馬町6丁目77番地に本社を置いている。その陣容は社長が境野熊蔵(愛知県師範学校長)、監督が松山義根(丹羽・葉栗郡長、後に衆議院議員)、石川猪太郎(代言人)、記者が岡田辰次郎、田中有文である。他に、同志として太田平右衛門(旧刈谷藩御用商人)、岡田徳右衛門(旧尾張藩御用商人)らの有力商人もいた。発刊の際には、愛知県北設楽郡稲橋村の豪農古橋義真の援助を受けている。だが、経営状態は苦しく、その部数は約500部程度であった。そのため、立憲帝政党の創設者の一人で『東京日日新聞』主筆・日報社社長の福地源一郎は、約500部の部数を少しずつ増加し、その間の赤字は株主の出金か借入を行うように経営上の助言を行っている。しかし、明治17年4月に廃刊した。その背景には、『愛知日日新聞』発刊前に立憲帝政党が解党(明治16年9月24日)したこと、愛知県における他紙との競合と発行部数の少なさ、愛知県庁など外部資金への依存という課題があった。令和4(2022)年現在、その紙面は未発見である。

『新修豊田市史』関係箇所:4巻85ページ