(あおみのこおり)
【古代・中世】
『和名類聚抄』『延喜式』などにみえる古代三河国の郡名。飛鳥の石神遺跡から出土した木簡により7世紀末には「青見評」と表記されていたことがわかっている。『和名類聚抄』によれば、智立・釆女・刑部・依網・鷲取・谷部・大市・碧海・櫃礼・呰見・河内・桜井・小河・大岡・莇野(・駅家)という15(16)郷があり、三河国では最大の郷数を誇り、賀茂郡の約2倍存在したことがわかる。戸令2条によれば、20里以下16里以上は大郡、12里以上は上郡とされており、職員令74条によれば大郡には大領1人・少領1人・主政3人・主帳3人(上郡は主政2人・主帳2人)と定められていた。賀茂郡の南にあり、郡域を接する碧海郡の采女郷域が現在の豊田市に含まれている。釆女郷に関しては、平城宮東院南部の庭園地区東北隅の土壙から、表に「婇里 知□里 □部里 長谷部里」、裏に「取里 青見里 前里 石寸里」と記した木簡が出土しており、これが采女里の里名の初出である。里字が郷字へ変わる霊亀3(717)年5月頃以前の里名を記したものである。釆女里は市内に畝部東・畝部西町の地名が残っているところから、それを含む付近と思われる。碧海郡には古代の東海道が通っていたため、賀茂郡からは公民の運脚夫による庸・調の運搬などのため、南下して碧海郡の鳥取(鳥捕)駅から東海道に、また三河国府からの連絡なども、国府から西に進み矢作川を渡り鳥取駅から北上する必要があったと思われる。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻33・83ページ、6巻390ページ