(あおみのしょう)
【古代・中世】
西三河の荘園。荘域は現在の岡崎市の矢作川流域に豊田市、安城市の一部が加わった地域。豊田市内では、現在の畝部東・畝部西町が入る。中世の史料では「宇祢部」などと表記された。平安時代後期の成立であるが、その史料である『兵範記』の記事をどのように読むかで、12世紀前半か11世紀までさかのぼるのか、見解が分かれている。ただ、いずれの場合でも、天皇家が領有する荘園の一つとして成立したことは確かであろう。この荘域は、古代には三河の貴重な生産品である犬頭糸を都に多く納める地域の一角であった。そのため、成立当時は、毎年11kg程度の犬頭糸を京都に送っていた。鎌倉時代になると地頭が置かれたかもしれないが、詳しいことは不明。しかし、承久の乱のあとに三河守護となった足利義氏が、碧海荘でも新たに地頭として確認できる。そののち、義氏の孫である斯波家氏が地頭として領有した。建長7(1255)年には、家氏が宇祢部の畠地を、岡崎市北部にある瀧山寺に寄進している。以降、斯波氏が地頭を継承し、室町時代にもその状態が確認できる。ただ、鎌倉時代後期、弘安8(1285)年の霜月騒動に際して斯波氏も犠牲となり、碧海荘も幕府に没収されたとの理解もある。そうであれば、この荘園にも北条氏の勢力が浸透していた可能性が高いが、鎌倉幕府の滅亡によって、斯波氏が地頭に返り咲いたことになる。室町時代、尾張と遠江の守護であった斯波氏にとって、それをつなぐ中間地である三河の碧海荘の価値は高く、自らの被官を代官に送りこんで支配を維持していた。なお、その間、本家としては一貫して天皇家があり、その下でさまざまな貴族や寺社が領家とされていたと思われる。しかし、15世紀後半には、この地域でも松平氏などの地域勢力が成長し力を伸ばしてくる。その頃までには、地頭斯波氏の下で維持されていた荘園の枠組も解体に向かっていたのであろう。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻197・266ページ