(あかさかやくしょ)
【近世】
赤坂役所は、幕府が三河における幕領を支配するために置いた役所。赤坂陣屋とも呼ばれる。江戸時代初期、三河支配に関わった代官は三浦直正ら複数確認できるが、寛永13(1636)年頃に幕領の統廃合・再編が行われ、鳥山家、鈴木家、松平家の三家が代官を世襲して三河の大部分の幕領を支配した。五代将軍綱吉の時、悪化する幕府財政立て直しの一環として代官の官僚化が進められる。その影響を受けて世襲代官であった鳥山・鈴木・松平の三家が三河から他国の代官に転出する。三家に代わり三河国の幕領の一部を支配することになったのが国領重次である。関東代官・勘定吟味役でもあった彼は、藤川宿に出張陣屋を置いた。貞享4(1687)年、国領重次が代官職を辞すると、野田秀成が後任となり、彼の時に藤川宿から赤坂村へ陣屋が移された。ここに赤坂役所が成立する。明和7(1770)年に岩松純睦が赤坂代官になるまで、歴代の赤坂代官は三河国に赴任してきていたが、岩松以降は三河に赴任せずに赤坂役所を出張陣屋として、三河国の支配を行った。なお、三河の幕領の支配自体は赤坂代官のみが行っていたのではなく、近隣の代官も関わっていたが、じょじょに赤坂代官の管轄地域が広くなってゆき、寛政3(1791)年、中泉・赤坂代官兼帯辻守貞の時に赤坂役所が三河全体の幕領を管轄するようになる。寛政12年、赤坂代官は廃止となり、その職務は中泉代官が引き継ぐ。それに伴い、赤坂役所は中泉代官所の出張陣屋と位置付けられる。これ以降、中泉代官の命令を受けて赤坂出張陣屋に駐留している手付や手代達によって業務が行われるようになる。ただし、検見などのために中泉代官が三河を訪れることもあった。中泉代官林伊太郎(号「鶴梁」)は、嘉永6(1853)年、同7、安政2(1855)年に三河・遠江を巡見したことを彼自身の日記に記している。そのうち、安政2年の巡見では市域を巡っている。三河の幕領村々にもっとも近しい幕府役人は、赤坂役所に常駐している手付・手代らであった。幕府や代官は役人が年貢徴収などで廻村する場合、村々に負担をかけることや、村々と役人達が癒着することを嫌い役人の廻村に際して特に気を使わないようたびたび命じている。しかし、手付・手代の俸給は決して高くなく、かつ手代にいたっては正式な幕臣とは扱われない不安定な身分であった。その結果、全国的に村役人と結託して私曲(私利私欲の行い)や不正に手を染める者が多かった。市域の村と赤坂陣屋・中泉代官所の役人との間にも同様な関係がみられ、稲橋村名主が作成した検見に際しての心得書の中に中泉代官所詰・赤坂代官所詰の役人達に金銭を送るようにとの記述がみられる。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻105ページ
→ 三河代官