(あしかがたかうじ)
【古代・中世】
室町幕府の初代将軍。市域と直接関わったわけではないが、三河との関係は深い。元弘元(1331)年に父の貞氏が没する以前から、足利氏の家督と三河守護職を継承していたらしく、その年の後醍醐天皇の挙兵に対して鎌倉幕府が9月に送った軍勢を構成する大将軍の一人として、三河の兵力を率いていた。この時期の足利氏の軍事力が三河を基盤とするものになっていたことがわかる。元弘3年に再び鎌倉から京都に向かった時の軍事力も、三河で成長した一族や被官たちで成り立っていた。その軍事力を率いて後醍醐天皇側に寝返り、鎌倉幕府を打倒すると、建武政権の中でも大きな勢力を持つようになる。しかし、建武2(1335)年の中先代の乱のあと、鎌倉を動かずに東国に自立する姿勢をみせた。建武政権が追討の軍勢を送ると、それを三河で迎え撃つために派遣した軍勢には、「分国」である三河からの軍勢動員と、矢作川を越えずに戦うことを指示している。三河を西の境界線として東国に自立しようとした構想がうかがえる。この年11月の矢作川の戦いで足利勢が敗れると、こうした構想も影を潜めるが、以後も日本の東西で戦いを進める上で三河を重視する姿勢は変わらなかった。建武3年後半には京都を制圧して室町幕府を開創していくが、その初期から三河の守護として側近の高一族を送り込んでいる。ただ、観応の擾乱(1349~52年)で高一族は壊滅的な状態となり、その三河支配は終わった。一方、高橋荘の中条秀長を重用したことも確認できる。特に観応2(1351)年11月、対立する弟の足利直義を追って東海道を鎌倉に向かったとき、三河で直義派の一族である吉良氏の強い抵抗をうけ京都と鎌倉の連絡が遮断される危機に直面すると、それに対抗するための勢力として中条秀長を頼ろうとした事実は、当時の室町幕府にとっての三河の重要性と、その中での高橋荘の大きな存在感とを伝えるものであろう。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻278・288・310ページ