(あずきざかのたたかい)
【古代・中世】
天文17(1548)年3月に小豆坂(岡崎市戸崎町)付近で繰り広げられた、駿河・遠江・東三河を領国とする戦国大名今川氏の軍勢と、矢作川以西を配下としていた尾張清須守護代下の実力者織田信秀の軍勢との戦い。『信長公記』には、天文11年8月の両者の小豆坂における戦いが記されている。後者を第一次小豆坂の戦い、前者を第二次小豆坂の戦いとする説もあるが、後者に関する同時代史料は皆無であること、また今川・織田双方が抱えていた天文11年当時の政治状況から、天文11年を否定する説が有力である。天文17年の戦いは、今川軍勢を太原崇孚が、織田軍勢を信秀が率いた。天文16年の秋頃まで今川義元と織田信秀は三河分割統治の線引きにつき合意していたが、これに齟齬が生じて同年9月信秀は岡崎城を攻め、城主松平広忠を従わせた。その頃、両者の合意は破綻し対立に転じた。『三河物語』などによると、両軍は互いに敵の進軍標的地を捕捉しないままに進むうちに小豆坂において遭遇し、戦いが始まったという。両軍の消耗は同程度と伝えるが、織田方が岡崎城にではなく、以前から三河進出の拠点として確保していた安城城まで退くことによって戦いが終結しているので、戦略的には織田の敗戦である。その後、信秀が身体不如意の後遺症を伴う大病を発したこともあり、翌年には今川氏が安城城を奪った。三河が完全に今川領国となっていく転換点となった戦いとされる。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻516ページ