足助氏

 

(あすけし)

【古代・中世】

清和源氏のうち、美濃から尾張にかけて勢力を広げた一族から、1160~70年代におそらく源重長が三河の足助地方に進出した。その家が足助氏と号するようになる。鎌倉時代になると、重長の娘が2代将軍源頼家との間に公暁を生むなど、幕府と接近し、三河の御家人として存続した。一方、鎌倉中期の足助重方は佐渡守に任官し、昇殿を果たしたとされるなど貴族社会との関係も深かった。のち、弘安8(1285)年の霜月騒動では一族の足助重房が討たれており、次第に幕府との距離が開いていたようで、元弘元(1331)年の後醍醐天皇の挙兵には足助重範が加わって幕府軍を相手に奮戦している。南北朝時代には南朝に与する者がいる一方、足利尊氏から三河での軍事力として期待される一族もいたようである。室町時代には奉公衆として足助氏の一族が名前をみせるが、具体的な足跡は確認できず、次第に現地での支配からは乖離していったと思われる。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻191・230・267・275・299・393ページ

→ 源重長