足助重範  ?~1332

 

(あすけしげのり)

【古代・中世】

鎌倉時代末期の武士。足助貞親の子。鎌倉時代中期の有力御家人であった足助重方の曾孫にあたる。祖父頼方は三男ながら惣領として家を嗣いだという。頼方・貞親父子は鎌倉幕府の北条得宗家と関係を深めたともいわれる。しかし、霜月騒動で一族が討たれ、足助の地にも得宗の勢力が手を伸ばした可能性があるなど、鎌倉後期の政治情勢などが影響したためか、重範は一転して反幕府の行動をとることになった。元弘元(1331)年8月、後醍醐天皇が鎌倉幕府に対して挙兵し、笠置山の城に楯籠もると、その軍勢に加わり、幕府軍と戦ったのである。弓の名手として、幕府軍の荒尾兄弟を射倒したとされる。この兄弟は尾張の荒尾氏の関係者か。戦いの初期の段階では、まだ遠国からの動員が間に合わず、三河や尾張など京都から近い地域の武士たちが動員されていたことがうかがえる。しかし、幕府の大軍が笠置山に殺到するようになった9月末には城が落ち、重範も幕府軍に捕らえられた。翌年、京都の六条河原で処刑されたという。この時、足助氏の嫡流は一時没落したと思われるが、一族の中には元弘3年の鎌倉攻めに加わる者もいたようである。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻275ページ