(あすけしょうがっこうこうどう)
【建築】
足助町(足助地区)。足助小学校は飯盛山の北東に位置し、講堂は小学校の敷地の奥に建っている。本校は明治3(1870)年7月に足助村が本町の小松市三郎の倉庫を借りて学校を造ったことに始まり、明治5年8月に学制が発布されると、校舎を地方(足助)事務所(本多家の陣屋跡)に移し足助郷学校と称した。明治14年11月15日、小学校は字陣屋跡に校舎を移築した。明治40年、生徒の増加と学校設備のために建物の新築・修繕等が始まり同41年10月23日、現在の場所に新校舎が落成し、同月28日、新講堂の落成式が行われ、同小学校に初めて講堂ができた。昭和13(1938)年以前から使用していた講堂が狭くなり、雨天体操場(講堂)と特別教室の新築、改築となり、同13年7月15日に竣工式を行った。旧講堂63坪は改築して特別教室の一部となった。新しい講堂は雨天体操場となり、木造スレート葺の平家建195坪、便所15坪と渡廊下2坪を付属し新築した。これが現在の講堂である。本講堂は木造平屋建、入母屋屋根、瓦葺(当初はスレート葺)である。小屋組は木造トラス構造である。平面は間口10間、奥行19.5間の長方形の講堂である。正面の間口7間、奥行2間弱を入口、その脇三間を倉庫としている。その奥10間×12間を講堂(体育館)、講堂内部は外壁から1間入った位置に2間ごとに五寸角の柱(当初材)が両側に各5か所、計10本が立っている。講堂の奥正面では中央部7間、奥行き2間、高さ2.5尺を舞台とし、さらに舞台奥の中央3間、奥行1間を御影所としている。両脇と背面を通路とし、奥に10畳の洋室、6畳間2部屋、2畳の和室、4畳間の便所が並ぶ。開口部はすべて引違い窓・戸となっている。外部はイギリス下見板張、内部は漆喰塗仕上げとなり、天井も漆喰の折り上げとなっている。小屋組は長さ8間の木造トラスが2間ごとに9か所架け屋根を支えている。小屋組は木造から鉄骨へと移行するが、その移行期の大きな木造トラス構造を残す本講堂は貴重である。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻469ページ