足助神社

 

(あすけじんじゃ)

【近代】

足助地区の足助町宮ノ後、足助八幡宮の隣りに鎮座する。明治35(1902)年創建。元弘の変で討死した足助重範を祀る。後醍醐天皇に味方して笠置山に馳せ参じた足助重範については、稲橋村の古橋暉皃・義真、農務官僚の織田完之らによって、三河勤王の首唱と位置付けられ、顕彰運動が展開された。彼らの運動の結果、明治24年に重範へ正四位が贈られる。その翌年、足助町役場に足助重範公建碑建社事務所を設置し、紀念碑建立と神社創建に向けて募金活動を始める。明治32年、足助氏の古城址と伝わる真弓山山頂に真弓山城墟碑を建立する。明治35年、神社創建の公許を得て現在地に社殿を造営し、足助神社と称した。例祭日の5月3日(後に4月10日)には、郡内各小学校は遙拝式を行い、唱歌「足助重範公の歌」を合唱し、郡内青年団員および小学校生徒は賽銭を奉納することを定例とした。昭和7(1932)年には重範没後600年の大祭が足助神社において執行される。その翌年、重範は従三位に追陞され、愛知県知事が策命使として足助神社に参向した。昭和14年、足助町において足助神社奉賛会が組織され、社殿改築と真弓山への拡張移転および別格官幣社への昇格を目指して活動した。その後、運動を強力に推進するため、奉賛会事務所を足助町から愛知県内務部地方課に移管し、県内および東京において広く募金活動を展開したが、時局の急迫により移転工事は進捗せず、昇格も実現しなかった。敗戦後は政教分離指令に伴い、奉賛会は東加茂郡民を氏子とする機構に改革された。


『新修豊田市史』関係箇所:4巻373・702ページ、12巻530ページ

→ 足助重範