(あすけちょうのがっぺい)
【現代】
足助は古くから飯田街道の宿場町と塩の道の中継地として栄え、この地方の交易・商業の中心としても発展し、町制施行も明治23(1890)年と早かった。昭和29(1954)年4月答申の愛知県町村合併計画試案では、足助町と賀茂村による新設合併が盛り込まれた。2か町村の合併協議は、当初、商工業と観光の施策中心の足助と、農林業の施策中心の賀茂では地域性が違うという理由で低調であった。県の働きかけで、県議会議員・東加茂地方事務所長も出席した29年10月27日開催の第2回足助・賀茂合併懇談会にて、第1次試案に代えて、足助・盛岡・賀茂・阿摺の1町3か村をもって合併促進を図ることが早期実現の途、と意見が一致した。元々、4か町村とも人口が標準規模以下のため合併を検討せざるを得ない状況で、山間地のため合併候補も限られていた。4か町村は、足助町を中心とする同一経済圏、人情風俗もまったく同じ環境、一部事務組合による病院・造林組合などの経営、足助八幡宮の氏子圏と一致しており、社会的・歴史的にも一体性が強い地域であった。4か町村による合併協議は早いペースで進んだ。11月5日に足助町外三ケ村合併研究協議会が開催され、翌年の30年1月31日の合併研究会で合併を決定した。2月13日に法定の第1回合併促進協議会にて、新町名は投票により足助町とする、本庁舎は現足助町役場を増築し、現3か村の役場を出張所として残し、新町の議会議員の選出には旧町村を区域とする選挙区を設ける、などを正式に定めた。2月17日に4か町村の議会が開かれ、町村の廃置分合を可決した。そして30年4月1日、人口1万6800人、面積193㎢の新しい足助町が誕生した。初代町長には加藤庄三郎が選ばれた。新しい町政は「総親和で」とし、役場には総務課、税務課、民生課、産業課、土木課、教育委員会、出張所(旧村ごとに西部・東部・北部)、農業共済組合がおかれた。
『新修豊田市史』関係箇所:5巻10ページ