足助荘      

 

(あすけのしょう)

【古代・中世】

三河西北部の荘園。現在の足助町の周辺。1160~70年代の頃に美濃尾張源氏の一族である源重長がこの地に進出し、若尾氏などの現地勢力を駆逐したらしい。この家は重長から足助氏を称するようになる。重長は天皇家とのつながりを持ちつつこうした活動を行ったと思われる。そうであれば、この時期に足助荘が実質的な天皇家領として成立していた可能性が高い。なお、現存する史料に足助荘という言葉があらわれるのは14世紀に入った応長元(1311)年からである。そのため、実質的な荘園の成立はともかく、足助荘という名称でこの地が呼ばれるようになったのがいつであるのか、かつては説が分かれることもあった。隣接する高橋荘は平安末期に成立した天皇家領荘園であったが、のちに開発地が拡大して新荘と呼ばれる場所があらわれる。その高橋新荘が室町時代に足助荘になったのではないか、という見方があったのである。しかし、史料の整理が進み、足助荘の表記が応長元年にあらわれるのに対して、高橋新荘は延文2(1357)年まで使用されたことがわかってきたため、現在では、高橋新荘とは別に足助荘が成立し発展したと考えられている。そのため、平安末期には足助荘が成立していた可能性が高くなるのである。そして、天皇家領荘園としてのありようも、鎌倉時代を通して維持されていたと考えられる。鎌倉時代にもこの地が足助氏の拠点として機能しており、その足助氏が鎌倉時代中期の足助重方たちの足跡からうかがえるように、貴族社会や天皇家との関係を有していたことも想定できるからである。そうした歴史が、鎌倉時代末期に後醍醐天皇の反幕府の挙兵に加わった足助重範などの行動に繋がったのであろう。室町時代にも奉公衆である足助氏の拠点であったが、土岐氏など他の勢力も浸透してくる。やがて足助氏の足跡もみえなくなり、15世紀末までには鈴木氏などの新興勢力がこの地を支配していたようである。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻191・254・369・492ページ

→ 高橋荘高橋新荘