足助八幡宮

 

(あすけはちまんぐう)

【考古】

足助八幡宮は、香嵐渓を流れる巴川が旧足助宿の西側で支流の足助川を合流させて北西から南西方向へと大きく湾曲する左岸内側の河岸段丘上で、足助支所の西隣に鎮座する足助地区唯一の旧郷社である。祭神は、主祭神の品陀和気命をはじめ七座で、江戸時代の「三州足助絵図」(犬山城白帝文庫蔵)に描かれた境内地は東隣の足助支所の敷地をも含み、巴川を挟んだ対岸の飯盛山山頂には「奥の院」・「上の社」と称された「八幡嶽宮」が祀られていた。南北朝期成立の『足助八幡宮縁起』によると、天武天皇の白鳳3(674)年に鎮座したとある。同縁起は鎮座に至る経緯や建久6(1195)年の源頼朝の参詣などの中央との関係を記したのち、仁治元(1240)年以降、建武4(1337)年に至るまでの間は、足助地方に関わる記事を載せている。史料が乏しい時期のことであるために登場人物等の多くは傍証史料を欠くものの、注目すべき縁起とされている。室町時代中期(社伝では文正元(1466)年11月)に再建された本殿は、檜皮葺の三間社流造で国指定文化財となっている。江戸時代には数多くの絵馬が奉納され、慶長17(1612)年の「鉄砲的打図板額」は県指定文化財、12点の絵馬は市指定文化財である。境内には矢場があり、元禄5(1692)年の矢場定の板額をはじめ数多くの金的中の奉納額がある。かつて足助祭の祭礼は、8月15日に行われていたが、明治期の養蚕の隆盛に伴い10月15日に変更されたという。明治元(1868)年の神仏分離令まで、境内には神宮寺である教寿院(天正13〈1585〉年創建、前身の真敬院は観応2〈1351〉年には存したと伝わる)等があり、現在も鐘楼が境内に残っている。国道153号の南側にある十王堂の木造薬師如来坐像(鎌倉時代)は、神宮寺の本尊と伝わる。境内地およびその周辺は埋蔵文化財包蔵地で、国道153号以北の境内地側は宮ノ後遺跡、南側は宮平遺跡と称されている。ともに部分的な発掘調査が行われ、縄文時代以降は、連綿として人々の営みが続いてきたことが明らかにされつつあるものの、これまでに神社や神宮寺に関連する遺構は確認されていない。ただし宮ノ後遺跡からは、足助地区細田町にある平安時代末~鎌倉時代初頭の塩狭間窯跡出土の軒瓦に酷似する瓦が出土していて、神宮寺の存在を示す証左とみられている。なお、本殿東側に隣接する足助神社は足助重範を祭神として明治37(1904)年に創建されたものであり、同西側に鎮座する金毘羅社は境内社である。また、社叢中には市指定天然記念物の「足助八幡宮のスギ」と「足助八幡宮のイチョウ」がある。

『新修豊田市史』関係箇所:1巻70・175・185・226ページ、2巻163・270・650/3巻203・601・639/19巻354・369/20巻466ページ

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