(あすけまつり)
【近世】
「足助庄」を唱える村々の氏子によって行われてきたとされる足助八幡宮の祭礼。町方(本町・田町・新町・西町の4町)が山車の奉納、村方(足助周辺村々)が飾り馬の奉納と鉄砲・棒の手などによる警固を行った。流鏑馬神事のように明治期に廃止された神事もある。飾り馬の中には、馬上に「献馬大将」と呼ばれる等身大の木製人形を乗せたものもあった。なお、飾り馬の奉納をめぐっては、祭礼に参加する村々の間でたびたび紛争が起こっている。山車の上では若者が狂言を行った。そのため、名古屋から師匠を招き、祭礼までに入念に稽古をしている。本番前には、足助4町に舞台が設置されて「祭礼衣裳揃」と呼ばれるリハーサルにおいて狂言を演じ、それを観覧した人から評価が低かったものについては本番までに改善された。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻639ページ
【民俗】〈マチの民俗〉
足助祭りは足助八幡宮の大祭で、かつては10月15日に行われた。祭礼日は昭和44(1969)年に10月15日に近い日曜日に変わり、隔年で開催され、昭和61年からは毎年の開催となり、平成4(1992)年から10月第2土・日曜日に行われるようになった。足助八幡宮の氏子は足助のマチ(町方)を中心に近隣のムラ(在方)に及び、町方の西町・新町・本町・田町が山車を奉納する。在方では現在、警固として火縄銃の鉄砲隊を送り出している。棒の手の奉納もあり、かつては献馬も行われていた。祭りの初日は試楽祭で、午前中に4町の山車を組み立て、午後から町内での「引き回し」となる。マチの各所では鉄砲隊の発砲もある。夕方には神輿渡御があり、八幡宮から神輿が出発して4町と周辺の地区を巡る。翌日の本楽祭では、午前中に山車は西町→新町→本町→田町の順で八幡宮境内への「宮入り」を行い、八幡宮東の豊田市役所足助支所前に並列する。宮入り後、鉄砲隊による「切り渡し」が始まり、八幡宮社殿周辺を時計回りに隊列を組んで周回し、所定の場所で発砲する。次いで神輿が八幡宮の西にある石清水八幡宮へ向かい、神事が行われる。神輿がもどると「追い込み」が始まり、鉄砲隊は社殿を中心に周回しながら火縄銃を打つ。この後、鉄砲隊は支所前に整列して地元に戻る。夕方になると4輌の山車が八幡宮境内に入り、1輌ずつ八幡宮の神前に進み出る。この際、山車に乗る若連の年行司が、上山に据えられた竹竿の先にあるボンデン(梵天)2つを両手に持ち、祝いの言葉を大声で唱えて放り投げる所作(梵天投げ)をする。梵天投げが済むと4輌の山車は支所前に並列し、田町→本町→新町→西町の順番で各町に戻る。これを「帰り車」といい、翌日に山車は解体されて蔵に保管される。山車の警固に鉄砲隊が伴う点に地域色があり、曳行中、若連が踊る山車に設けられた舞台では、かつては狂言が演じられた。〈マチの民俗〉
『新修豊田市史』関係箇所:15巻796ページ