足助村

 

(あすけむら)

【近世】

南北を山で挟まれた足助川の段丘上に立地する足助は、太平洋沿岸部と中部山岳地帯を結ぶ交通の要衝にあり、矢作川・巴川舟運と接続する伊那街道の荷駄中継を担うことで、尾張・三河・信濃からの物流の結節点として繁栄をみた。近世初期の領主は頻繁に変わるが、天和元(1681)年、陸奥国白河12万石本多忠義の五男・本多忠周が、その分知5000石を加茂郡に移されたのを機に本多家知行所となり、以後は幕末までその支配が続いた。寛永6(1629)年検地帳によれば、田町・東町(のちの本町)・西町・新町の4町名が明記されており、元禄期頃には、宿場と商業的要素が融合した在郷町としての内実および景観を備えるようになる。各町は、独自の財政や祭礼組織を有する共同組織であり、本多家領27か村を束ねる大庄屋を筆頭に、各町から選出された庄屋・年寄・組頭により構成される町会所を中心に運営が図られた。足助四町には、荷ノ口銭と呼ばれる下り荷への課金慣行が認められており、橋修復などの直接経費のほか、祭礼や雨乞祈祷料といった共同体維持経費にも充当されている。足助四町の家数は、元禄2(1689)年の162軒から文政12(1829)年には251軒へと増加するとともに、多くの借家人層を抱えるようになり、明治3(1870)年には借家率69%、借家人が世帯の58%となっている。頻繁な人の移動を一元的に管理するため、足助四町では文化13(1816)年以降、転入手続きを個別町から庄屋に移す対応をとっている。住民の職種をみると、流通を支える問屋をはじめ、天保期には塩屋14軒、穀屋・宿屋が各10軒、油屋・味噌屋・酒屋・豆腐屋が各6軒、紙屋4軒、紺屋3軒、鍛冶屋2軒、馬宿6軒などがあった。中でも信州方面で「足助塩」あるいは「足助直し」といわれた塩は重要な交易品であり、巴川遡行の平古経由、矢作川遡行の古鼠経由、名古屋から伊那街道経由で越戸を通る3ルートにより、大浜、饗場、成岩、赤穂など三河湾産や西国の塩が流通した。これらの塩は、産地により一俵の重量が異なり、苦汁を含んで容積も変化するため、山道の運送に適するよう足助の塩屋で改装され、馬士により信州へと運ばれた。在郷町化した18世紀以降の村政は、塩の移送等の中継的商業に従事し、御用金調達にも関わった本町の前田三郎左衛門や田町の山田治郎兵衛などの有力商人により運営されていく。しかし、領主財政の重い負担もあり、これら特権商人の多くが衰退するなか、19世紀前後からは、綿や紙・漆、米・大豆・肥料などの取引のほか、貸金業、地主経営、三河湾沿岸部の新田開発への投資など、広域経済圏とも結びついた多彩な活動を展開する小出権三郎や鈴木利兵衛らの新しいタイプの商人が台頭する。彼らは、本多家の財政に深く関わり、家臣に登用されるなど身分上昇を伴いつつ、町の行財政を主導するようになる。また、資金融資を行うことで土地集積を進めるなど、足助および周辺村々への経済的支配を強めており、世直しを求める加茂一揆では打ちこわしの対象となったように、地域社会に大きな影響を与える存在であった。なお、足助は経済的な分野だけでなく、文化や信仰の世界でも地域の中心的役割を担っていた。足助八幡宮祭礼には、「町方」足助四町から出される4輌の山鉾車に加え、「在方」と呼ばれる周辺村々(文化年間で42か村)からも飾馬と警固(鉄砲組と棒の手)が奉納された。山鉾巡行という都市的要素と馬の塔類似の村的要素が複合した祭礼様式は、在方の都市的空間として発達した在郷町足助の特質を示すものといえよう。


『新修豊田市史』関係箇所:3巻201ページ

→ 足助商人伊那街道荷ノ口銭