足助役所

 

(あすけやくしょ)

【近世】

旗本本多家が三河における知行所支配のために足助に置いた役所。天和元(1681)年、知行5000石の旗本本多忠周が陸奥国に持っていた知行所が三河に移された際に設置された。同時に兄忠利が挙母藩主に、同じく兄忠晴が伊保藩主に就任している。忠周は、その後加増を重ね、天和3年には寺社奉行に就任し、三河・上総両国で知行計1万石を領有、足助に藩庁を置いた足助藩を立藩する。しかし、貞享4(1687)年に忠周は勤め方が宜しくないとの理由で寺社奉行を免じられ逼塞を命じられる。元禄2(1689)年に逼塞は許されるが、寺社奉行就任時に加増された3000石は召し上げとなった。以降、旗本本多家は知行高の変更なく忠貞・忠強・忠弘・忠保・忠堅・忠昶・忠恒・忠嘩・忠興・忠陳と続き明治維新を迎える。足助役所には士分5、6人ほど、手代・足軽・中間7人ほどと武士格の御用達数人が常駐していた。幕末期、「足助陣屋絵図」によれば役所の敷地には接客空間である座敷棟と、役人らが住む長屋や米蔵・土蔵が置かれていた。忠周と同時に挙母藩主・伊保藩主となった兄達の子孫が転封となったため、足助役所本多家は一時期三河国に頼れる存在を失うが、明和6(1769)年に一族の本多忠粛が岡崎藩主になると、いつしか一族のよしみで岡崎藩を頼るようになる。元治元(1864)年の天狗党の乱において防備を固めた際には岡崎藩に依頼して藩兵を派遣してもらっている。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻57ページ