阿摺衆

 

(あすりしゅう)

【古代・中世】

16世紀後半の阿摺郷に群居した小領主(土豪)たちの一揆(連合体)。阿摺川および、小渡町付近から下って阿摺川と合流するまでの間の矢作川の、両河川沿い一帯を、室町時代以来、阿摺郷と呼んだ。川原宮謁磐神社(かわはらのみやあちわじんじゃ)(御蔵町)の明徳5(1394)年の棟札によれば、同社は「阿摺之内惣氏神三州賀茂郡阿摺郷謁磐宮大明神」と記され、阿摺郷の村々および「額田郡東阿知和村」など阿摺郷から転出した人々の居住村とみられる村名が列記されている。天文24(1555)年、阿摺衆は今川氏に属し、反今川の立場で共闘していた足助(または小原大草)の鈴木氏・広瀬(東広瀬町および近隣)の三宅氏・美濃国明智(岐阜県恵那市明知町)の遠山氏と対決した。阿摺衆は明智において敵方と通じる者を、また鈴木氏が築いた小渡砦からの帰途にあった三宅氏勢を襲撃した。今川義元は、原田三郎右衛門尉某と簗瀬九郎左衛門尉家弘を阿摺衆の統率者とし、2人を介して阿摺衆への指示、軍功認定などを行った。原田種久と簗瀬家弘は桶狭間の戦い後も今川氏に属して行動をともにし、阿摺郷の浅谷(山谷町)、八桑(新盛町)で敵方と戦った。永禄4(1561)年閏3月21日、原田と簗瀬は松平元康が発した誓約の文書を受け入れて、今川氏を離れて元康に属した。天正3(1575)年、長篠の戦いに先立ち、武田氏別動隊が明智より濃三国境を越えて侵入し足助城を攻め落とした際には、武田氏側の文書によれば、「阿須利」などの阿摺衆の「小城」は「自落」した。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻526ページ