(あみだいんほんどう)
【建築】
畝部東町(上郷地区)。当寺は、応仁年間(1467~69)、勢誉愚底により創建され、福林寺と称されたが、後に阿弥陀院と称されるようになった。その後、岩津(岡崎市)の大樹寺の末寺となり、天保5(1834) 年に大樹寺44世宣誉により堂宇の大改修が行われたと云う。その後、撤誉眞映が中興とされ、現在は岡崎の荒井山九品院の伊藤超善氏が兼務しているという。本堂の建立年代は、棟札より寛政6(1794)年である。また、山門は虹梁の絵様から判断して19世紀初期のものであろう。本堂は、桁行5間(実長6間)、梁間7間(7間強)、寄棟造、桟瓦葺、一間向拝付、南面建ちである。堂内は、前面1間の広縁では畳敷詰として棹縁天井を張っている。その奥3間の外陣では前面を柱間三間として中央間を背違いに高く敷鴨居、内法長押を通し、現在内法上に小壁を入れず開放しており、内部は凹字型の30畳の空間として棹縁天井を張っている。脇の間は、前面では内陣前面より実長1間後退させて無目敷居、蹴込板を通して床高を上げ、上部に柱間装置を設けず開放し、後方では柱間に虹梁を渡して仏壇を設け、その背後には物置を設けている。内陣は、前面と両側面の柱間では床を高めるために蹴込板、無目敷居を通し、内法上部に大虹梁を渡して開放し、その上には前面で3分点、側面では2分点に大瓶束を立て、その間に彫刻欄間を入れ、柱上に頭貫(端木鼻)、台輪(端花頭形)を通し、出組斗栱を置き、中備に彫刻を嵌めている。内陣前面より三間後方に来迎柱を立て、前面に禅宗様須弥檀を出し、柱上に頭貫(端木鼻)・台輪(端花頭形)を通し、出組斗栱を置き、折上格天井を張っている。来迎柱の奥では、1間幅の板間を隔てて幅半間の仏壇を造り、仏壇を3区分している。なお、内陣、脇の間では床を畳敷詰とする。この建物は、小規模ながら、内陣周囲を丸柱、虹梁、斗栱で荘厳し、内陣を凸字型、外陣を凹字型の空間を形成しており、近世浄土宗本堂としての特徴をよく示した貴重な遺構である。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻38ページ