(あんえいがわこうじ)
【近世】
矢作川の天井川化に伴う沿岸の浸水被害が常態化するなかで、丘陵地に囲まれた挙母・金谷・下林・長興寺村は、深刻な排水障害を生じるようになる。とりわけ明和4(1767)年大水害の後遺症は深刻であり、挙母藩は安永2(1773)年、新堀割(排水路)を開削する計画を立案する。しかし、潰れ地となる用地交渉が難航するなど、この開削工事に対する苦情は多く、苦情川との世評があったと『七州城沿革小史続編』は記している。この水路は、安永年間に着手したことから安永川と呼ばれるようになるが、長興寺付近の岩盤掘削などの困難もあり、完成までに70年もの歳月を要する難工事となった。嘉永4(1851)年に開通した安永川は、狭窄部である「鵜の首」よりも上流で矢作川に合流しており、洪水時には水位上昇による排水障害が発生したため、明治8(1875)年には排水先を下流部に延長し、川幅を拡幅することで排水機能を確保した。さらに、昭和5(1930)年のトンネル開削・昭和16年の再延伸(昭和の大改修)が行われたが、平成12(2000)年の東海豪雨で市街中心部に大きな浸水被害が生じたことから、平成14~令和3(2021)年には河川断面の再拡大を行うとともに多自然川づくり(平成の大改修)が実施された。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻481ページ