安政東海地震  

 

(あんせいとうかいじしん)

【自然】

安政東海地震と安政南海地震は、わずか1日(32時間)をおいて連鎖的に発生した巨大地震である。安政東海地震は、北緯34.1°、東経137.8°付近に震央を持ち、マグニチュード8.4と推定されている。中部~近畿の太平洋側を中心に震度6以上の強い揺れが襲い、市域の震度は5~6と推定される。被害は甚大で、家屋の倒潰や橋や城、寺社の破損など被害範囲は伊豆から伊勢に至る沿岸地域と内陸から越前、加賀といった北陸までの広範に及んだ。津波は房総から土佐の沿岸で被害が大きく、津波の高さは最大10mを超えている。愛知県内でも渥美など外洋に面した地域ばかりでなく、三河湾、伊勢湾沿岸にも津波が襲来し、各地でさまざまな被害を引き起こしている。渥美郡赤羽根では、500m程度海が引いた後精進川を遡上し集落に床上浸水の被害を与え、弁天社が高波で流失した。熱田神戸町では家屋倒壊8棟、破損19棟、高塀、橋台、石垣などが崩壊したとされる。愛知県における安政東海地震および津波の被害は、倒壊・流失家屋8300戸、焼失600戸、死者は約1000人とされる。静岡県沿岸でも津波による大きな被害があった。奥浜名の細江や気賀では、地震で土地が沈降した後津波が来襲し、湖岸低地は水没した。新居でも津波被害が発生し、300軒以上の家屋が破損・流失した。津波と液状化によって田畑も壊滅し、浜名湖の今切口は700間に拡大した。新居の対岸に位置する舞阪にも津波が来襲し、民衆が津波を避けるために高台の寺院と山へ避難する様子が描かれた絵図が残っている。一方、32時間後に発生した安政南海地震は、北緯33.2°、東経135.6°付近が震央で、M8.4とされる。両地震によって吉田城(豊橋市)本丸の多門、櫓、石垣が大きく破損した。名古屋城三の丸の門、多門櫓、高塀などが破損し、武家屋敷147か所も破損がみられた。

『新修豊田市史』関係箇所:23巻664ページ

【近世】

嘉永7(1854)年11月4日、熊野灘から遠州灘、駿河湾内までを震源域とする推定M8.4の東海地震が発生した。東海道では掛川・袋井(ともに静岡県)など全潰・焼失する宿場もあり、津波が襲った太平洋沿岸村では死者・怪我人・溺死人や潰れ家のほか、新田の沈下や田畑への土砂入りなどで復旧不能な地域も出るなど、各地に甚大な被害をもたらした。挙母では潰家6軒、半潰14軒、大破122軒、石灯籠倒35所、堤損所が9965間余(約18km)、切所(破堤)131間余(約236m)の被害が出たほか、遠州領でも潰家202軒、死傷者2人の被害が出ており、余震は翌年6月まで続いたという。また、花園村寺田家の日記によれば、矢作川堤防が「大割」となり、液状化で泥砂が田畑に吹き上げた様子が詳述されており、長く続いた余震の状況、風聞も含めた各地の被災状況、物価情報、領主層の動向などをリアルに記した貴重な記録となっている。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻475ページ、8巻280ページ