安藤早太郎  1816?~1864

 

(あんどうはやたろう)

【近世】

挙母藩士で通し矢の名手。脱藩後、新選組に加入。挙母藩の藩医安藤宣全の長男として、文化13(1816)年頃の出生と考えられている。挙母藩中興の祖とされる内藤政優に仕え、弓術修行に励んだ。天保10(1839)年、挙母藩が猿投社で挙行した流鏑馬の射手を務め、翌年から通し矢に精通した高木応心斎の指南を受けた。早太郎は『内藤家譜』の編さんも命じられており、文武に通じていた。挙母藩は天保13年に奈良東大寺での通し矢に挑み、射手の早太郎は総矢数1万1500本、通し矢8685本という空前絶後の記録を達成。長さ約107mの東大寺西廻廊は京都三十三間堂よりも射通すことが困難といわれ、事実上の天下一とも称された。この様子は「東大寺通し矢絵巻」(写真)に描かれ、錦絵にもなって喧伝された。この快挙により早太郎は近習から用人へ進み、新知80 石を与えられた。翌年には京都三十三間堂で白羽2 箭を放っているが、次第に藩内での立場が悪化し、嘉永4(1851)年に脱藩。その後の足取りは定かではないが、12 年後の文久3(1863)年、京都で結成された新選組の副長助勤に沖田総司らと並んで安藤早太郎の名が現れる。同年の新選組の編成表には「三州」「四十才」「雪荷派弓術」との添書きがある。早太郎は元治元(1864)年の池田屋事件で深手を負い、壬生の屯所で息を引き取った。親戚の田中正幅が供養したとみられる墓碑が京都聞名寺にあるとされ、京都壬生寺にも連名墓がある。


『新修豊田市史』関係箇所:3巻604ページ

→ 田中正幅内藤政優