(あんぷくじほんどう・さんもん)
【建築】
鴛鴨町(上郷地区)。寺伝によると、元は天台宗の小庵であったが、大永年間(1521~28)に教円が実如の九字名号を授かっており、その頃には本願寺に帰依し、道場を構えていたであろう。天正年間(1573~92)には上宮寺(岡崎市)の次男、和泉が入寺しており、貞享4(1687)年の末寺手形帳では「鴛鴨村安福寺」とある。安福寺の寺号については、勝鬘寺(岡崎市)から了意の子順誓が入寺して第1世となり、その子で2世の順故が天和年間(1681~84)の頃に安福寺の寺号を公称し、享保年間(1716~36)の頃まで寺門繁栄に尽力した。元文年間(1736~41)に本堂を建立したが、現本堂(写真)は3世順勝が再建し、棟札によれば天明8(1788)年に釿初めが行われ、寛政元(1789)年に上棟された。大工棟梁は、岡崎両町の荒川定右衛門であった。本堂は桁行実長6間半、梁間実長7間、寄棟造、桟瓦葺、向拝1間(実長3間)付で東面して建つ。間取りは、前より間口6間、奥行3間を外陣、その奥1間を矢来内とし、外陣の正面に擬宝珠高欄付の濡縁を付す。堂後半は中央の間口3間、奥行3間を内陣、その両脇に間口2間の南余間、間口1間半の北余間を配し、ともに奥行2間半で、その内の背面半間に脇仏壇と余間仏壇を設ける。北余間の外側は半間幅の廊下、南余間の外側は落間にあたる後補の2部屋が続く。堂背面には奥行1間の後堂を設ける。内陣は来迎柱と須弥壇を用いる後門形式をとる。柱は来迎柱2本を円柱とするほかは面取角柱である。床高は余間を上段、内陣を上々段とする。虹梁は、外陣外廻りの正面中央3間、矢来内正面の柱間、内陣廻りの柱間、脇仏壇・余間仏壇正面、来迎柱の柱間に渡し、矢来内正面と内陣廻りと脇仏壇・余間仏壇正面の虹梁上に詰組や蟇股を配す。外陣外廻りの柱間は正面中央3間に双折桟唐戸と障子を入れる。内陣および余間正面では柱上に出三斗を載せ、中備蟇股、内法上に高肉彫欄間を嵌め、柱間には内陣前に双折巻障子、余間前に千本障子を入れる。内陣廻りにも出三斗と蟇股を配す。天井は外陣と矢来内と余間を格天井、内陣を折上格天井とする。この堂は、18 世紀末期の中型本堂で、外陣奥行3 間に比して余間奥行2 間と浅く、通し仏壇形式から来迎柱・須弥壇形式に移行する過渡期の遺構として貴重である。山門は、中型の四脚門で桟瓦葺、両脇に袖壁が付く。軒は二軒繁垂木。建立年代は、寺記によると天保14(1843)年建立である。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻75ページ