(いいのはちべえ)
【近世】
宝暦2(1752)年に江戸に強訴した挙母藩領民の代表。寛延2(1749)年に挙母藩主本多忠央が相良に転封となり、代わって上野国安中藩主内藤政苗が挙母に入封する。家格が城主である内藤家は、幕府の命令で城が置かれていなかった挙母に築城することになり、寛延4年から挙母城(桜城)築城工事に着手する。しかし、宝暦2年12月に飯野村百姓八兵衛を代表とする領民の一団が年貢減免や桜城築城にあたり課されている人夫役の減免などを訴えるために江戸に出府し、内藤家の江戸屋敷に出訴した。翌3年、内藤家は厳しい吟味を行い、八兵衛ら江戸への出訴を主導した者6人を死罪、35人ほどを追放や手鎖に処した。また、騒動を的確に処理できなかった咎で家老川井内記ら数人の家臣も処罰された。この騒動は、八兵衛の名前や、彼のあだ名「芋八」をとって、「飯野八兵衛騒動」、「芋八騒動」と呼ばれる。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻41ページ