易往寺本堂

 

(いおうじほんどう)

【建築】

花沢町(下山地区)。大同年間(806~810)に僧行覚が小御堂の地に堂宇を建立し、阿弥陀如来と薬師如来の尊像を安置、二尊の御利益を受けて病災を救われる者が多いとされ、医王寺と称するに至った。その後、医王寺を再建し、易往寺と改めて従来の二尊を守って天台宗の末寺を開いた。天正年中に兵火にあって焼失し、主僧は仏像を小庵に移した。慶長年間(1596~1615)には本願寺教主の教如に帰仰して真宗に転じた。現本堂は古記録によると天明3(1783)年に祐円が再建している。本堂は桁行実長8間半、梁間実長8間、入母屋造、茅葺(鉄板覆)、向拝1間付で東面する。軒は一軒疎垂木。間取りは、前より奥行3間を外陣、その奥1間を矢来内とし、外陣の正面には半間幅の濡縁を付す。堂後半は中央の間口3間を内陣、その両脇を南余間(間口2間)、北余間(間口1間半)とし、ともに奥行3間半で、その内の背面半間に脇仏壇と余間仏壇を設ける。余間の両外には間口1間の飛檐の間を配し、堂背面に後堂を通している。内陣は来迎柱と須弥壇による後門形式をとる。柱は来迎柱の2本を円柱とするほかは面取角柱とする。床高は余間を上段、内陣を上々段とする。虹梁は、矢来内正面の柱間、内陣廻りの柱間(正面除く)、脇仏壇・余間仏壇正面の柱間、来迎柱の柱間に虹梁を渡し、矢来内正面と脇仏壇・余間仏壇正面の虹梁上に蟇股を載せる。外陣内部を虹梁等で縦に3分しない。外陣外廻りの柱間には旧板戸と障子を入れる。内陣および余間正面は柱上と束上に出三斗を載せ、内法上に龍や雲や楽器の高肉彫欄間を嵌め、柱間には内陣前に双折巻障子、余間前に千本障子を入れる。内陣内部にも柱上と詰組に出三斗を配す。天井は、外陣を棹縁天井、矢来内と余間を格天井、内陣は折上小組格天井とし、飛檐の間を棹縁天井とする。この本堂を復原すると、堂前半では、外陣両外側の下屋部分の小室がなくなり、正面の濡縁が側面まで廻される。堂後半では、側背三面の下屋部分が取れ、余間では、仏壇が半間手前の角柱位置まで移され、内陣では来迎柱の位置が半間手前に出され、脇仏壇の位置も、1間手前( 2 つ前の角柱)まで移動し、余間の背面の仏壇位置に揃えられる。内陣背面の仏壇は通し仏壇の前面に須弥壇を設けた形式に復原される。


『新修豊田市史』関係箇所:22巻127ページ