筏流し  

 

(いかだながし)

【民俗】〈環境〉

河川を利用する運材方法の一種。市域の筏流しには丸太筏、竹筏、船板筏があった。筏を組む場所をイカダドバ(筏土場)といい、組んだ筏を流送する人をイカダノリ(筏乗り)といった。筏乗りは2、3人で1組となり、竹筏だと1人で乗った。筏流しは冬場の仕事であった。矢作川の筏流しは、上流側では3組に分かれ、上組は閑羅瀬(旭地区)の土場から小渡(旭地区)の土場まで、中組は小渡から上川口(藤岡地区)の土場まで、下組は上川口から百々どうど、(高橋地区)の土場までを担当していた。百々土場に接して貯木場があった。百々まで流される丸太筏は幅が4尺5寸の4段縛りで2枚(2組)から7枚くらいにした。竹筏の場合は1枚であった。百々土場で解体された丸太は貯木場で保管されるか、そこで幅15尺10枚から15枚もある大型の筏に組み替えられ、西尾市米津や平坂の土場まで流された。その先は船に係累され、三河や尾張の海港に運ばれた。巴川の竹筏は九久平(松平地区)のカミとシモの土場で組まれた。竹筏の1枚は幅が2間あり、竹を1束ずつフジ蔓で繋ぎ、これを2段組み2枚にした。竹筏は巴川を下って矢作川に入り、矢作川の河口部にある碧南市棚尾まで来ると、そこに待機していた手船に係累されて衣ヶ浦(知多湾)に入り、半田市成岩で解かれて陸揚げされた。矢作川や巴川では、船のシキ・タナ用に製材された船板が筏に組まれ、岡崎、碧南に流送された。これをフナイタニ(船板荷)とかイタイカダ(板筏)といった。船板は上下3段に組まれ、矢作川では3枚から4枚、巴川では2枚が普通であった。矢作川では昭和4(1929)年、藤沢(石野地区)に阿摺ダムができて百々行きの筏流しが廃止された。巴川の板筏が最後に流送されたのは昭和19年のことであった。昭和30年代には、巴川・矢作川の水深が土砂の堆積によって浅くなり、九久平からの竹筏も昭和34年をもって終わった。〈環境〉

『新修豊田市史』関係箇所:15巻77・85ページ、17巻255ページ

→ 百々貯木場