(いけのぼう)
【近世】
室町時代中期に京都六角堂の僧侶池坊が確立した華道の流派。2代池坊専好(1570~1658)が近世に入って「立花」様式を完成させると、僧侶・公家・武家だけでなく町人層にも浸透したため、門人数が増加した。池坊専定(1769~1831)は「幹作り」と呼ばれる立花様式や生花の伝授方法を定めるなどして、池坊生花の基礎を築いた。専定代には三河・尾張に多くの門人がおり、江戸へ下向する際には西尾に逗留して花会の指導を行っている。三河における池坊の普及に中心的な役割を担ったのは岡崎の兵頭家であった。碧海郡花園村(高岡地区)の豪農である寺田伝兵衛家は、重賢が「旭曜軒」という号を名乗ることを専定から許され、重賢の甥で伝兵衛家を継いだ重明が、元服前の12歳で池坊の立花部門の特別な門人であることの証である「会中席」を許されている。重明は、天保13(1842)年に専定の13回忌追善花会が開催された際に、24歳という若さで花を生けた。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻584ページ
→ 寺田重賢