(いしがみいせきしゅつどもっかん)
【古代・中世】
奈良県明日香村の石神遺跡から出土した木簡。石神遺跡の第15次調査(飛鳥藤原第122次調査)・第16次調査(飛鳥藤原第129次調査)で三河国関係の木簡が多数出土した。市域に関係する鴨評関係の木簡は、木簡1・<□□年十二月三川国鴨評」 ・<山田里物部□□□米五斗」(032型式)、木簡2「鴨評下枯里物部稲都弥米五斗<」(032型式)、木簡3「壬辰年九月七日三川国鴨評□□(081型式)、木簡4「<三川国鴨評山田五十戸国□(039型式)、木簡5「<三川国鴨<」(031型式)、木簡6「<壬辰年九月□□日 三川国□× ・「<高椅里 物部□乃井六斗(039型式)、木簡7「<壬辰年九月廿四日□□里長部大□」 ・「<呂五斗」(032型式)、木簡8□椅里□□(081型式)で、すべて『新修豊田市史6 資料編 古代・中世』に収録されている(木簡の資料の記号については、資料編の木簡凡例による)。これらにより、遅くとも壬辰(持統天皇6年)あるいは庚寅(持統天皇4年)には「三川国」という表記が成立していたこと、奈良時代以前にカモのコオリ名は「鴨評」と表記されていたこと、「鴨評」下の行政組織である「下枯」「山田」「鴨」「(高)椅」のサト名、物部・長部姓の人名の存在などがわかった。また、木簡の032・039・031の型式番号のものは、長方形の材の左右に切り込み(<)を入れた荷札木簡の形をしており、また「米五斗」などが記されている。そのため米俵に付けられた貢進荷札が、勘検の終わったあとに廃棄されたものであることもわかった。それらのことから、遠く離れた飛鳥地域で市域に関する木簡が出土したことにより、当時「鴨評」などから都の工事のため仕丁が徴発されており、大化2(646)年の改新詔などから「鴨評」の50戸ごとに2人徴発され、資養のため庸米5斗が都に送られ、仕丁1人が労役に従事し、厮1人が炊飯に従事していたことが想定できるようになった。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻27ページ、6巻379ページ
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