(いっしきあきのり)
【古代・中世】
南北朝・室町期の武士。一色範光の子。応安元(1368)年に幕府の評定衆になり、康暦2(1380)年には三河守護代に任じられたとみられる。永徳元(1381)年から同3年まで幕府の侍所頭人を務める。嘉慶2(1388)年に父範光が没し、若狭・三河守護に任じられる。明徳2(1391)年には尾張国知多郡を、同5年には同海東郡を領した。経済的に裕福であり、京都の詮範の邸宅は「見事なり」と伝えられている(『吉田家日次記』応永10年11月19日条)。応永2(1395)年6月、足利義満の出家に従い、詮範も出家した。応永13年6月7日没。法名信将。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻364ページ