一色氏

 

(いっしきし)

【古代・中世】

清和源氏で、足利氏の一族。鎌倉時代に泰氏の第五子にあたる公深が、三河国吉良荘一色(西尾市)を本拠として、一色氏を名乗った。公深の子範氏は九州の軍事統率者として主に北九州で南朝方と戦ったが、勢力が振るわず、九州の統治は十分に達成されなかった。観応元(1350)年に足利直冬が九州に下向すると、さらに九州の経営は困難になり、文和4(1355)年に範氏は九州を去った。延文2(1357)年には子の直氏、範光らも九州を引き上げることとなった。のちに範氏は若狭国、ひいては三河守護に就き、勢力を伸ばした。範光の子詮範は侍所頭人となり、四職としての家格を得た。範光の孫満範は明徳の乱で山名氏清を討伐した戦功により、丹後守護に任じられると、3か国守護としてさらに発展した。すでに尾張国知多郡の支配を認められており、次いで同国海東郡も加えられていた。これらの地域を結ぶ海運による流通も展開していたと推測される。永享12(1440)年5月、満範の子義範(義貫)が没すると、三河守護は細川氏に任じられ、一色氏は次第に衰退した。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻364ページ