(いっせいしょくりん)
【現代】
第二次世界大戦後に木材需要が急増したが、利用できる森林資源は少なく、その一方で山々の森林地では乱伐が進み、各地にはげ山が広がった。その結果、梅雨期の大雨や台風による暴風を伴う豪雨により、全国の多くの河川は氾濫を繰り返し、山々は土砂崩れを引き起こし、流域の都市部はもちろん、空襲の被害が少なかった農村部も洪水に巻き込まれ、荒廃した山地がもたらした災害が全国に多発した。昭和25(1950)年に朝鮮戦争がはじまると、連合国側は木材を日本から調達したため、木材価格は高騰し、荒廃山地への植林が急務となった。政府はこの段階で植林を奨励するようになり、農林家が自家労働力で植林作業をすれば、補助金だけで植林が可能になる政策を打ち出した。それに伴い山行苗木は稲武森林組合では昭和26年から昭和29年にかけて約40万本、旭森林組合では約45万本、小原森林組合では14万本、下山森林組合では昭和28年だけで21万本を数えた。昭和30年代になると、こうした動きが全国に広がり、まさに「一斉植林」の状況が生まれた。こうして生まれた人工林の比率は、昭和40年代には40%に迫り、世界有数の森林国になる基礎ができた。しかし、育林期間は長く、すぐに収入につながらなかったため、その後の日本経済の都市中心の発展の中で、山間地域からの人口流出が続き、植林者たちはその恩恵を受けずに来ている。また、一斉植林は杉の植林が多かったために、花粉症も広がった。今後は植林木をどう利用できるかが大きな課題となっている。
『新修豊田市史』関係箇所:5巻76ページ