井戸

 

(いど)

【考古】

井戸は、地面を掘削して水を汲み上げる施設で、一般に、地下の湧水層まで土坑(穴)を掘削して地下水を汲み上げる「掘り抜き井戸」と、導水路などから運ばれた水を土坑に溜めて汲み取る「溜め井戸」に大別される。市内で確認される前近代の井戸はすべて掘り抜き井戸である。掘り抜き井戸は土坑側面の土砂崩落防止のために設けられる構造物の材質から、素掘り式井戸、木組側式井戸、石組側式井戸などに分類される。比較的地盤が堅固である洪積台地上や丘陵部で掘削される井戸は、特別な構造物を持たない素掘り式井戸であることが多い。鎌倉時代~江戸時代に洪積台地上に掘られた井戸は、沖積低地に面する崖に近い場所や谷地形になっている部分に構築されていることが多い。鎌倉時代には土坑の平面形が直径3m前後で、深さ1m強の素掘り式井戸が一般的である。時代が経るにつれて、平面形は徐々に小さくなり、深さが深くなる傾向がみられ、戦国時代になると深さ3m前後になる。18世紀には石組側式井戸が登場し、石組の最下部に井桁状の土台木を据える場合もある。ただし、洪積台地上では沖積低地から離れる奥部になるにしたがって湧水層が深くなるため、井戸が構築されることはほとんどなく集落も形成されていない。特に丘陵部の山城では、井戸が曲輪内部に構築される場合と谷地形に設置される場合とがある。いずれも湧水点(水道)を的確に捉えた配置となっており、大半が素掘り式井戸である。これに対し沖積低地上に掘削される井戸は、比較的地盤が軟弱であるために木組側式井戸である場合が多い。市域では古代の井戸は未発見であるが、中世の13世紀中葉~14世紀後葉には桟木などを方形に組み合わせた枠木を据え、その外側に長い板材を縦方向に並べて井戸側とした方形木組側式井戸が上郷地区の郷上遺跡・天神前遺跡などで作られている。その中でも方形縦板側横桟支柱式井戸(写真:郷上遺跡SE24)が主体となっている。さらに、14 世紀末~16世紀初頭になると、四隅に柱を立てそれに横桟を組み込んで枠木を据えた方形縦板側隅柱横桟式井戸や細長い板材ではなく、細い竹材を隙間なく並べた方形竹材側式井戸なども現れた。これらの方形木組側式井戸には最下部に木枠よりも小さな曲物筒が据えられており、この部分が水を溜めておく水溜め部となっている。また16世紀前葉以降になると、高さ1m未満の板材を円形に並べ外側から竹製のタガで結い合わせている結物筒を用いた円形結物側式井戸が主体となる(郷上遺跡、高橋地区古城遺跡ほか)。この円形結物側式井戸は結物筒を複数段にわたって重ねて構築することができるため、方形木組側式井戸よりも深い位置に構築されている場合があり、一般に水溜め部を持たない。結物の側板は、16世紀前葉~後葉までは桶造りで通有の割裂法による製材で作られたが、16世紀末は縦挽鋸によって製材されたものが登場している。16世紀以降には稀に石組側式井戸(挙母地区今町遺跡ほか)も構築された。

資料提供者「(公財)愛知県教育・スポーツ振興財団愛知県埋蔵文化財センター」

『新修豊田市史』関係箇所:2巻432・435・658・667ページ、20巻746ページ

→ 郷上遺跡古城遺跡

【民俗】〈住生活〉

湧き水や沢水と並び、重要な水源が掘り抜き井戸であった。井戸は屋内(ウチイドと呼ばれる)、屋敷地、山際、道端、水田などいたるところに作られ、屋敷内では1軒で1つ所有するのが普通だったが、3つぐらい所有する家もあった。屋内に1つ、屋外に2つという具合である。逆に1つの井戸を2、3軒で共有することもあった。地下の浅い層に水道みずみちがある場合、井戸は浅く、水量も比較的豊富だった。しかし10mぐらい掘らないと水の出ない井戸もあった。西広瀬(猿投地区)の場合、2mほどの礫石の層の下に岩盤があり、マミズ(真水)の帯水層はその下だったので、水を得るにはここまで掘る必要があった。井戸を掘る時は、井戸掘り職人が露天の手掘りで行った。礫石層を掘りながらイドゴ(井戸枠)を入れていき、壁が崩れるのを防いだ。岩盤層まで来ると、今度はツルハシで岩を割っていった。岩の層は場所によって違うが、それほど深くはなかった。岩盤を掘り割ると帯水層になった。水質はさまざまで、季節によって水が枯れたり、濁ったりすることがあった。水質の良い井戸はシミズ井戸と呼ばれ、水はそのまま飲むことができた。ソブ(鉄分)があると水が赤くなり、こうした水はソブミズと呼ばれた。良い水とはいえず、使用する時にはろ過する必要があった。バケツに入れてしばらく置いておくと、底に濁りが溜まるのでその上澄みを利用したり、ガメ(水甕)に砂と石、炭を入れて漉した。手押しポンプの先にガーゼの布袋をつけて漉すことも普通に行われた。ソブミズは洗濯物を茶色にするので要注意であった。笹戸(旭地区)や綾渡(足助地区)では7月に井戸さらいが行われた。梯子を下して井戸の中に人が入り、バケツで水を汲み出した。水面と接するイドゴ内部は青みどろになっているので、こすってきれいにした。水をかき出してもすぐにソブが溜まり、濁りをとるために塩を撒いた。〈住生活〉

『新修豊田市史』関係箇所:15巻411ページ、16巻398ページ