(いなけんあすけきょく)
【近世】
伊那県が三河管下支配のために足助に置いた支局(役所)で、のちに足助庁・足助出張所とも呼んだ。足助局は、明治2(1869)年6月の新政府による三河県の廃止と伊那県への管轄替えの通達のあと、事務手続きを経て9月に開局した。足助局の官員は、元三河県付属の者と伊那県の本県・支局からの転属の者によって構成されていたが、元三河県付属で稲橋村の古橋暉皃も、三等庶務方・足助局詰となっている(のち権少属戸部方)。また、地元の足助からは、加藤忠蔵貴広が仕丁(のち小使兼門番)に、小出権三郎惟吉と鈴木利兵衛重種が足助局の租税や用途金・商法金などを出納する掛屋に任命されている(のち鈴木重種は鈴木利十郎重篶と交替)。足助局は、伊那県本局の指示を仰ぎながら新政府の出先機関として活動する一方で、物価の統制や足助限定通用の銭札発行の許可、紙漉き屋の育成のために商法金貸付を利用した紙会所を設置するなど地域の状況に応じた足助局独自の活動もみられる。その後、足助局は、明治4年7月の廃藩置県を経て、11月の三河国一円と尾張国知多郡を管轄する額田県の設置によって廃止された。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻760ページ