(いなぶのまちなみ)
【建築】
かつて稲武の町並みは、稲橋村のタヒラ、武節町の屋敷、車田あたりであったが、現在は桑原の藪下、須形あたりまで含めて町並みを構成している。武節町は、戦国時代、たびたび合戦の場となった武節城の麓に開けた町であった。また、中馬の宿場町としても栄えた町でもある。町屋の外観は壁を板張りにした家が多く、瓦屋根の勾配は緩い。間口は広い家が多く、小屋組は小屋梁、小屋束、登梁、母屋、垂木、野地板の構成としており、足助とは異なり長野県根羽村の小屋組と類似している。平面は街道側を半間の土間とし、東側に幅一間の通り土間としたL字型の土間とし、通り土間に沿って部屋を並べる町屋がいくつか残る。稲橋側の町屋は間口が広く古い町屋が多く残っているが、明治27(1894)年に道路の拡張工事により、街道側の正面半間の取壊しが行われたが、保存状態の良い町屋が街道の両脇に並んでいる。一方、武節側は文化8(1811)年、天保元(1830)年、明治25(1892)年、昭和17(1942)年の大火で全焼し、現在の武節側の町屋はこれ以降の建物が多いが、稲橋側から続く一連の伝統的な町屋の景観を残している。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻389ページ