犬頭糸

 

(いぬがしらのいと)

【古代・中世】

三河国特産の絹糸の名称。奈良時代から、三河国の白絁などが他国よりも高く取引されていたことが「正倉院文書」でわかっており、三河国の糸の品質の良さを物語っている。しかし、それが犬頭糸としてブランド化するのはおそらく平安時代で、『延喜式』によれば調として犬頭白糸2000絇を都に納めることになっており、それらは内蔵寮に納められた。おそらく、9世紀頃蔵人所の成立後、召物という物品請求にからんで犬頭糸納入が行われたのであろう。それに付随して犬頭糸伝承も平安京に入って、『今昔物語集』巻二六「参河国始犬頭糸語第十一」に書き留められたと思われる。この説話の典拠は、中国の『太古蚕馬記』などの影響が考えられている。この記事にみえる三河国の某郡の伝承地については、宝飯郡と碧海郡の説があるが、「(三河)国内神明名帳」(猿投神社文書)によれば、犬頭明神は碧海郡にあり、また碧海荘に組み込まれた国衙領の一部に犬頭糸が負担されているところからも、碧海郡から犬頭糸が都に運ばれていた可能性がある。また、碧海郡の糟目犬頭神社(岡崎市)がその伝承地の一つとされているが、挙母郷のコロモは絹糸の衣に通じるところもあり、碧海郡北部の釆女郷やその北に接する賀茂郡も犬頭糸の生産が行われていた可能性がある。『御堂関白記』長和5(1016)年7月10日条に、皇太后藤原彰子に奉られた物の中に犬頭糸50絇があり、蔵人所雑色の納殿預である高階成章が奉っているのが初見記事である。その後、犬頭糸は天皇の御服用として重用され、乞巧奠(7月7日)の儀式にも納殿の犬頭糸が転用されていたことがわかっている。元弘3(1333)年段階でも碧海荘の犬頭糸は特記されており、室町時代には犬頭糸の絵巻物まで存在した。しかし、戦国時代に天皇の権威が失墜するとともに、犬頭糸は忘れ去られていった。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻151ページ

→ 参河白絁