(いねかり)
【民俗】〈農業〉
晩生種が盛んだった頃(太平洋戦争前~昭和30年代)の稲刈りの時期は、10月下旬から11月にかけてで、ムラの氏神の祭礼が終わると始まった。12月までかかることもあり、田植と比べると時間的には余裕のある作業であった。早生種の作付けが増えると稲刈りの期日は早くなり、祭礼日を目安にすることは難しくなった。手作業の時代は鎌・鋸鎌で刈り、刈った稲は共稲で束ねるか、スガイ(ワラ紐)で結んだ。ヌマダの稲刈りでは、タブネ(田舟)や木枝を組みわせた運搬具であるズリを使用することもあった。昭和30年代には手押し式の稲刈り機が導入されるようになり、後には自動結束の稲刈り機、コンバインへと切り替わり、機械化が進んだ。刈った稲はハザに掛けて乾燥させた。多段のハザはヤエハザなどと呼ぶが、市域では多段ハザは少なく、2、3本のハザグイを立て、1本のハザタケを通す一段ハザが一般的であった。山間部では樹木をハザに利用することもあり、このような木をカケギと呼んだ。樹種は問わず、手ごろなものをカケギにした。日当たりが良いところでは、田に稲をそのまま放置して乾燥させるゴロマカシも行われた。脱穀は稲刈り後の田んぼで行い、戦前はコバシ(千歯コキ)を用いた。戦後は足踏み脱穀機から動力脱穀機へと変遷し、刈り取りと脱穀を兼ねるコンバインも使われるようになった。脱穀した籾は自宅に運び、カドで乾燥させた後、籾摺りをして俵に詰めた。籾摺りは昭和20年代まではトウスが主流で、機械式のトウス(籾摺り機)は、当初はムラの共有のものを運転手つきで貸し出していた。稲刈りの際にはサンマの目玉にしっぽを挿しこんで丸くし、焼いたものを食べた。これをドンガネ、ドンガネヤキなどと呼んだ。稲刈りが終わると、アキアゲ、ノアガリ、コバシヤ(コバシ祝い)、カマドメ(鎌止め)などと呼ばれる秋の農休みとなり、この際にはボタモチ(カリアゲボタモチ)を食べる地区が多かった。〈農業〉
『新修豊田市史』関係箇所:15巻153ページ、16巻90ページ、17巻441ページ