伊保遺跡

 

(いぼいせき)

【考古】

保見地区保見町・東保見町に所在し、伊保川北岸に広がる下位段丘面(越戸面)上に分布する集落遺跡。昭和44(1969)年~翌年にかけて、大橋勤や杉浦知が結成した猿投遺跡調査会が中心となって発掘調査が行われ、平成2(1990)年~4年には県埋蔵文化財センターが遺跡の東側で調査を実施し、後期旧石器時代の木葉形尖頭器や弥生時代後期の溝などを検出している。昭和44~45年の発掘調査は時間的な制約が大きかったため調査内容の全貌を把握しがたいが、土層の断面で見つかったものも含め、弥生時代後期~6世紀代までの竪穴建物跡が44基確認されており、遺物の時期は弥生時代中期~室町時代にまで及ぶ。遺跡範囲は東西1.4km、南北0.7kmに及ぶとされているが、時期や地点が異なる複数の遺跡の総称と理解すべきだろう。特筆すべきは、北側から伊保川に注ぎ込む伊保堂川沿いの谷に位置する柵口地区に営まれた3世紀中葉前後の集落跡である。竪穴建物跡や井戸状遺構などが展開し、溝からは畿内に起源をもつ多量の叩き甕や、叩き調整をもつ壺・小型甑が出土している(写真)。叩き甕がこれほど多量に出土した遺跡は矢作川流域では他に例がなく、叩き甕を作る技術をもった人たちが移住してきたことをうかがわせる。広域にわたる交流が活発化した古墳時代出現期の大きな社会変動が、この地にも及んでいたことを示している。この集落は3世紀後半のうちに姿を消してしまうが、5世紀末葉になると南側に新たな集落が形成され、6世紀中葉までの数多くの遺物が出土している。この集落は6世紀後葉には規模を縮小し、7世紀初頭頃に伊保川の洪水等によって廃絶したとみられる。


『新修豊田市史』関係箇所:1巻248ページ、19巻44ページ

→ 大橋勤杉浦知叩き甕土師器埴輪