伊保藩

 

(いぼはん)

【近世】

三河国伊保に藩庁を置いた藩。慶長5(1600)年に丹羽氏次が1万石で伊保に入封し、慶長8年の江戸幕府開府に伴い立藩された。丹羽氏次は入封の翌年に死去しており、本格的な陣屋や伊保の城下町整備は氏次の跡を継いだ氏信によって進められた。寛永15(1638)年に氏信が1万石の加増を受けて美濃国岩村に転封となると、伊保藩領は幕領となり、伊保藩はいったん廃藩となる。天和元(1681)年、陸奥国浅川藩主本多忠晴が1万石で入封し、再び伊保藩が立藩する。忠晴が入部した際には丹羽家時代の陣屋はすでになかったため、新たに陣屋を造作して貞享3(1686)年に移徙している。貞享4年、忠晴が定めた年貢率などに不満を抱いた百姓たちが、江戸への出訴を企て、岡崎で留められる事件が起きたため、百姓らの願いを認め年貢率を下げるなどの措置がとられた。忠晴は元禄5(1692)年に大番頭、元禄15年に奏者番・寺社奉行兼帯に任じられ江戸に定府するようになる。それに伴い伊保陣屋にはわずかな郷役人が常駐するのみとなる。宝永2(1705)年に忠晴は、遠江国榛原郡と三河国碧海郡で知行5000石を加増され、計1万5000石を領有するようになると、藩庁を遠江国相良に移す。ここに伊保藩は廃藩となる。ただし、伊保は引き続き忠晴の知行所として残されたため、規模を縮小して伊保陣屋を残した。延享3(1746)年、忠如の代に陸奥国菊多郡泉へ本多家が転封となる。宝永7年、三河国の知行のうち9000石を遠江国に移されると、本多家が遠江国・三河国に持っていた知行所はすべて陸奥国に移された。それに伴い伊保陣屋に残されていた建物などはすべて売却され、伊保陣屋は姿を消した。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻13・97ページ