(いやま・いばやし)
【近世】
用水に関わる工事などの入用木材・費用を賄うために、用水専用の林野を設定しておくことがある。そうした山林を一般に井山・井林と呼ぶ。井山・井林を維持するために、村々では規定や管理者を設け、中には罰則を定めている例もある。井山・井林を持たない用水では、堰や圦の造り替えに村の入会山を利用することになり、山が荒れてしまい用材を得ることができなくなっていく。またそもそも用材を得るような山を持たない村は、領主に御林の用材の下渡しや費用の援助を願わなければならなかった。稲橋村の大井堰から取水する大井用水には早くから井山が設定されており、寛文9(1669)年には維持のための申合せがなされている。延宝4(1676)年にこの井山の所属をめぐって稲橋村と武節町村の争論が起こり、井山は幕府の御林となって管理を稲橋村と中当村が命ぜられた。井山の範囲について宝永元(1704)年に稲橋村と武節町村の争論が起こったが、武節7か村と名倉4か村の仲裁で内済が成立している。稲橋村と中当村は井山の木数などの改帳を時折幕府に提出している。延享3(1746)年の改帳では井山の反別は408町あり、木数は1万5409本、木種で一番多いのは椴で3968本、ついで栂が2426本となっている。慶応元(1865)年の改帳では木数1万3442本で、やはり椴・栂が中心である。この地域の村の入会山では杉や檜の植林が1840年頃から行われるようになったが、井山では杉・檜の植林はみられない。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻175ページ、7巻155・170ページ