(いよだよはちろう)
【近代】
文政5(1822)年4月8日、碧海郡阿弥陀堂村の清水伝右衛門の子として生まれ、のち伊予田家を継ぎ、岡崎藩から大庄屋の職に任じられた。伊予田は安政年間から阿弥陀堂村周辺の悪水排水路の開鑿を志し、文久2(1862)年には排水路計画を幕府に提出したが、刈谷藩などの反対で実現しなかった。維新後も計画の実現に努力したがうまくいかず、明治7(1874)年に岡本兵松の用水路計画に参加して、反対農民の説得や資金の調達に奔走した。岡崎町の田中勘七郎や村松惣九郎ら商人に資金協力を得て、明治12年1月用水開鑿工事に着手した。用水路は13年4月に竣工したが、伊予田は多額の負債を抱えることになった。明治用水の開鑿に尽力した功績により、明治16年10月岡本、田中勘七郎、加藤太兵衛、本多寛三郎、黒宮許三郎らとともに政府から藍綬褒章を授与された。同28年10月明治川神社境内の伊佐雄社に祭られ、さらに昭和17(1942)年になって明治川神社の本殿に合祀された。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻146・367・581ページ、12巻241ページ
→ 明治用水